つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

林業には「ロマン」がある

 

林業は、サイクルが長い。

苗を植えてから、十分に木が育つまで、

少なくとも50年はかかる。

 

ましてや、

それまで何もしなくていいわけじゃない。

植林時、密に植えた小さな苗は、

10年ほど、下草刈りを春から夏にかけて繰り返し、

5年や10年ごとに、間伐(間引き)をする。

 

手入れを怠った林は、過密になりすぎた木々が、

お互いに光を奪い合い、空を枝葉で覆う。

それでも十分には成長できずに、

木の幹は細く、林の中は暗く、地面が剥き出しになる。

50年経っても、径は小さく、建築材にはならず、

チップやバイオマスに、その大半が使われる。

結果、価格は安い。

 

戦後、拡大造林(全国的にスギ・ヒノキの植林を促した政策)によって、

日本の山は、スギやヒノキの林が急増したが、それがいま、50年以上経つ。

しかし、先に言ったような手入れがされてこなかった林が、多く存在する。

f:id:tsubasakato:20180822191234j:plain

手入れの遅れたスギ林。奥は林内に光が入るが、手前は頭上が覆われてどんよりと暗い。

 

 

なぜ、こんなことが起こるかと言えば、やっぱりサイクルが長いから。

50年とは、僕がいま植えた木を、

僕の子どもが手入れをし、

僕の孫が伐採をする期間だ。

50年後は、僕は74歳。

まったくもって、想像がつかない。

5年先の自分すら、わからないのだから。

 

----------

つまり、林業は、決してひとりじゃ完結しない仕事だ。

この時代 ー林業家が減り、木材消費量が落ち、

手付かず林が増え、花粉が飛び交い、土砂崩れが頻発する。

山や木が、ますます人から離れていくこの時代に、

林業をすること。木と向き合うこと。

 

それは、それでも人の暮らしに、人間の生に、

木、植物、森、山が必要だと信じ、

また、その信念を、不確かな未来のなかでも、

きっと、受け継ぐ人間がいるはずだと、信じ抜くことだ。

 

 

漫画・ワンピースで、ルフィたちが空島へ向かうとき、

クリケットは、こう伝えた。

"黄金郷""空島"!!!

過去誰一人"無い"と証明できた奴ァいねェ!!!

バカげた理屈だと人は笑うだろうが結構じゃねェか!!

それでこそ!! "ロマン!!

f:id:tsubasakato:20180821230002j:plain

 

 100年後の、立派な木、綺麗な山、美しい森を夢見て、

今日もまた、一本の木と、向き合う。

だから、林業には、ロマンがある。

始めて数ヶ月だけれど、そう思っています。

 

もちろん、ロマンは、追い求め続けなきゃ、手に入らないだろうから。

自分の技術を高めること、美しい森を考えること、仲間を探すこと。

その努力を怠ってはいけないのだろうけれど。

「人事を尽くして、天命を待つ」

そんな言葉が似合いそうな。

 

これから、まだまだ、人事を尽くさねば。

明日もまた、精進。

 

つばさ

いま、この時代に、林業をするということ。

林業

それは、どんな仕事にもない特異な性質を持つ。

 

仕事のサイクルが、ものすごく長いことだ。

木は植えてから、50年で伐る時期を迎える。

それまで何をするかというと、

下草を刈ったり、枝打ちをしたり、間伐をする。

それを数十年経て、ようやく木の用途が増え、価値が上がる。

角材や、板材や、柱材などの建築材になるのだ。

 

サイクルが長いと言われる農業でさえ、

一年周期で回っていく。

ましてや、他の業種はもっと早く回っているのだろう。

それに比べ、林業は、50年周期。

あるいは、そこから100年生の森をつくろうと思えば、

周期はもっと伸びうる。

「自分の植えた木を、孫が伐る仕事」と先輩が言っていた。

とてつもない、と感じた。

 

サイクルが長いこと。

その一番の弊害は、経験の蓄積の遅さである。

ビジネス的に言えば、PDCAが遅い。

検証できる仮説は少なく、

仮説の正誤を検証できるのも、50年後だ。

現在、日本には50年を迎えたスギ・ヒノキ林が大量にある。

戦後、燃料や住宅のために取られた「拡大造林」政策で、

植林が日本全国で行われたからである。

 

f:id:tsubasakato:20180718182042p:plain

齢級は、木の年数の数え方。1齢級=1~5年生、2齢級=6~10年生...となる。データは平成24年度のもののため、現在50年生以上の人工林は、10齢級以上のものとおおよそ一致する。(出典:林野庁

 

しかし、そう考えると、

パソコンが生まれ、スマホが生まれ、AIが生まれつつあるこの期間に、

林業は、一周しかしていないことになる。

スギ・ヒノキの人工林を主とする「林業」も、一度目の試みなのだ。

いかに、林業のサイクルが遅いかがわかるだろう。

 

 

「自分の植えた木を、孫が伐る仕事」

そのことを、友だちに話したら、

「そんな先のこと想像しながら、仕事できない」と言われた。

確かに、あんまり実感が湧かないかもしれない。

あるいは、自分もそこまで先を考えているのかと聞かれれば、

まだまだ考えが及ばないことも多い気もする。

 

だけれども、

本当にそれでいいのだろうか。

本来は、政治だって、教育だって、科学技術だって、

数年先だけを見てちゃいけないはずだ。

どんな国を目指すのか。

どんな人を育てるのか。

その技術で、世に何をもたらすのか。

それを50年、100年先まで考えて初めて、それらは意味を成すのではないか。

いまの時代に、それを考えている人が、どれだけいるのだろうか。

長期的視点というものが、失われてきていると感じるのは、僕だけだろうか。

 

だからこそ、いま、林業だ、と僕は思う。

林業は、50年かかる。

そんなこと、時代遅れだと言うかもしれない。

50年先のリスクを取るなんて、バカだと思うかもしれない。

だがしかし、50年かからざるを得ない、林業という世界は、

目まぐるしく変化する現代のなかでも、

そのスピードに惑わされず、

未来のために、本当に大切なことを考え、

その遠い先を見据えながら、

いま、やるべきことを、地道に続けること。

それを、教えてくれるのではないだろうか。

 

f:id:tsubasakato:20180718184743j:plain

僕はいま、昔の人が植えた木で、生きている。

 

ある山を間伐し終わったとき、

「30年経てば、ここはいい山になるが!」と、先輩が言った。

「そうですね」と、僕は相槌を打ったが、

心から、実感した言葉では、まだなかったかもしれない。

その感覚を、もっと深く、もっと強く、持って生きたい。

 

林業家的視点を持った政治家が増えれば、

日本はもっと変わるんじゃないかと思いながら。

明日もまた、森を見据えながら、木と向き合います。

 

つばさ

ヒエラルキーで苦しんだ僕は、ヒエラルキーの上を目指すのでなく、その外に脱出したい。

中学校、あるいは高校時代。

いつも、なんだか生きづらかった気がする。

 

特段、いじめられていたわけでもないし、

友だちと遊びに行くこともあった。

だから、直接的に苦しかったわけでもない。

だけど、いつも何かが、自分を縛っていた。

あるいは、何かで、自分を縛っていた。

 

どこの学校にも存在するであろう、ヒエラルキー

それは概ね、

カッコよかったり、かわいかったり、

おもしろいことを言えたり、コミュ力があったり、

スポーツができたり、恋人がいたり。

なんとなく、一つの「モノサシ」で上下が決まる。

そして、それで言うと、僕は明らかに「下」に位置した。

それにずっと苦しんでいた。

 

なぜ、それが苦しかったのか。

それは、「下」であることもそうだけれど、

何より「上」への憧れというか、羨望というか、

そういう感情が、心の奥底で、激しく渦巻いていたこと。

その嫉妬心や、劣等感。あるいは、疎外感。

そして、これらの負の感情を揉み消すための、

強がり、見栄、虚栄心。

「僕は、「下」であることなんか気にしてない」と振る舞うことで、

必死で「上」に行けない自分を守ろうとして、

心の表層で蓋をし、自分の行動をコントロールしていた。

 

自分が「下」にいるヒエラルキーを嫌悪し、離れようとしながら、

同時にヒエラルキーに縋り付いていた。

そのヒエラルキーが、僕の生きる世界になっていた。

苦しみながら、同時に自ら苦しませていた。

遠ざかろうとしながら、同時に近づこうとしていた。

そんな自己矛盾に、ずっと気づけずにいた学生時代。

 

それから、大学に入って、社会に出て行くなかで、

ヒエラルキーが無くなったかと言えば、決してそうではなくて、

学歴や、年収や、会社の規模や、知名度が、

その「モノサシ」に取って代わられた。

 

ヒエラルキー社会での人間関係は、 

相対評価での優劣のつけ合い。

もちろん、それが、良きライバルに出会い、磨き合い、

切磋琢磨できる仲間をつくることはわかっている。

競争が人々をより熱くし、より大きくすることはわかっている。

W杯、オリンピックがなぜおもしろいかと言えば、

やっぱり順位が決まるからだと思う。

どれだけ素晴らしい活躍をしても、

順位という結果がなければ、きっとつまらないと思う。

 

しかし、それはスポーツの論理だ。

学校や会社や人間関係を、競争原理だけで考えるのは好きじゃない。

競争原理もあってもいいけれど、それだけじゃ悲しいから。

それだけじゃ、いつまでたっても苦しいから。

人に認めてもらいたくて、「モノサシ」に沿っていったのに、

人に認めてもらうだけじゃ、満足できない自分がいる。

どれだけ「上」へ進んでも、

もっと「上」を見上げれば、焦がれるほど嫉妬するすげえ人がいて、

その空虚さを満たすために、「下」を探して優越感に浸る。

 

どうしても、どうしても、どうしても。

だめだ。

自分を変えない限り。

 

「頑張って」と応援しながら、「どうせできないよ」と心の中でつぶやく自分を。

「すごいですね」と言いながら、人の粗探しをする自分を。

 

ヒエラルキーが嫌いだ」と声高に叫ぶことは、

ヒエラルキーに依存することと同じだ。

ヒエラルキーを嫌う」というアイデンティティを持って、

自分の立ち位置を決めているから。

だから、こんなブログを書かなくていいぐらい、

もっと、意識せずに、心の奥底から、人とフラットに向き合いたい。

そんな人間になりたい。

 

f:id:tsubasakato:20180711184212j:plain

 

つばさ