「農業」と「農」は違うもの
「農業に興味あるんです」
と、いう同世代によく会う。というか、僕がそうだった。
だから、よく会うんだろう。
けれど、それは正確な表現じゃないと気づいた。
僕は「農」に興味がある。
「農業」には、そこまで興味がない。
「農業」と「農」、その違いはなにか。
辞書の定義なんかは置いておいて、僕のイメージで話します。
「農業」と「農」の違いとは
「農業」とは、産業だ。
産業とは、余剰生産を生み出し、商品・サービスの交換をする活動であり、
その根本には、売買と利益があるイメージだ。
産業:人間生活に必要な商品・サービスの生産・提供を行うためのさまざまな経済活動。
一方で「農」とは、もっと漠然とした意味合い。
それは、暮らしであり、心構えであり、生き方だ。
土のなかで生きている人、生き物と向き合って生きている人、自然といっしょに生きている人。
そんな人を見て、僕は「農」的だと感じる。
「農業」は、仕事っぽく、行動的で、実際にある感覚。
「農」は、精神的で、目には見えない感覚。
「農業的な暮らし」とは言わないが、「農的な暮らし」とは言うのは、そんな感覚からなのかな。
農的な風景、と呼べるものだろうか。
じゃあ、農家さんはどっちなのかと聞かれると、農家さんはどっちもだと思う。
仕事として、生活の糧としての「農業」をしながら、
「農」的な感覚で、生き物と向き合っている。
仕事として「農業」をしているからと言って、「農」が消えるわけじゃない。
それはどちらかではないし、むしろお互いを強め合うこともあるかもしれない。
でも逆に、野菜工場とかになると、また違うのかなと思う。
野菜をつくっていても、それは土のなかにいないし、
生き物っていう感覚はなさそうだし、自然といっしょに生きているわけじゃない。
だから、そこまでいくと、
「農業」ではあるかもしれないけれど、「農」的だとは思わない。
若者の言う「農業」とは
僕が言っていた「農業に興味がある」っていうのは、実際のところ「農業」じゃなかった。
それは、仕事として「農業」を選択できるほど覚悟は決まってないし、
自分の頭のなかでは、それで生計を立てている姿を想像してない。
むしろイメージしてるのは、古民家と庭にある畑。
そして爽やかな日差しのなかで、土をいじる自分だけだ。
上着脱いだら、全身ねずみ色だったなぁ、このとき。福島県で、大根の種まき。
だから、正確に言うならば、
農業に興味があるんじゃなく、「農的な暮らし」に興味があるんだ。
「農業」をしている人に対して、
「僕、農業に興味あるんです」と言うときの、なんとも言えない自信の持てなさ、
「え、お前、本気で言ってる?」と訴えてそうなあの目、あの顔。
そう考えると、それはある意味当然のことな気がする。
自分の気持ちを、正確に表現できてないのだから、しかたないのかもしれない。
これからの「農業」のあり方
そう考えると、いわゆる「農業政策」のあり方も変わるかもしれない。
もしいまの若者たちが、僕と同じように、仕事としての「農業」じゃなく、
暮らしとしての「農」に興味があるんだとしたら、
行政がやるべき政策は、農業体験からの移住促進なんかではなく、
その地域で、いかに自然と密接に結びついた暮らしができるのか。
そのあたりを押し出していくのが、いいんじゃないのかなぁ。
でも、そうなると、
仕事としての「農業」は、利益とか定量的に測れる一面も持っているけど、
暮らしとしての「農」は、現場にいないと感じることのできないものだから、
暮らしたこともない人々には、できないことなのだろうか。
うーん、最後のあたりは難しい。
また考え直そう。どなたでも、ご意見、お待ちしてます。
つばさ
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