つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

「農」は、職人だ

【「農業」と「農」は違うもの】という記事を書きました。

tsubasakato.hatenablog.com

 

予想以上に、共感の声をいただいて、励みになりました。

特に、本業で百姓されている方にも、良い記事だと言っていただけて、

それは自分の考えの自信になりました。

 

「農」とは、職人だ 

そのなかで、改めて気づいたこと。

それは、「農」には絶対に時間がかかるということ。

 

「農業」は産業なので、前例があるし、利益という評価基準がわかりやすい。

言ってしまえば、比較的理解しやすく、また達成しやすいと思う。

あるいは、達成基準が明確だというべきか。

 

けれど、「農」は暮らしであり、心構えであり、生き方である。

なかには、「哲学」であり、「精神」だと言ってくれた人もいた。

それならば、「農」を理解すること、

また体現することは、時間がかかるだろうことは、

みなさん、感覚的に同意してくれないだろうか。

精神が身につくのは、日々行動し、観察し、変化を捉え、また行動する。

その繰り返しでしかなく、その意味で「農」は本来、職人に近いのだと思う。

 

短期的な成果から抜け出す

その一方で、

いまの社会は、より早く、より大きな成果を出すことがすごいとされる。

「女子高生起業家」や「5歳の天才ピアニスト」なんてのは、最たる例な気がする。

 

そうなると、「農」という思想・哲学に興味がありながら、

同年代の人が成果をあげた情報を知ってしまうと、

どうしても、それにも憧れてしまう。

そして、そういう憧れで、「農」に興味がありながら、

少しずつ離れてしまって、社会で働き始めたら、

おそらくもう考える機会はほとんどない。

会社で給与をもらい、家族を持ったら、

そこから生き方を変えるのは、並々ならぬ犠牲と努力がいるのだと思う。

そして、そんな状況が、僕はとてももったいないと感じている。

 

でも、「農」の哲学は、日々繰り返す「暮らし」のなかにあるものだとすれば、

それはどうしたって、一定程度の時間はかかる。

あるいは、一生かけて理解し、体現するものかもしれない。

もしくは、一生かけても、理解しきれるものではないのかもしれない。

ならば、「農」を体現するには、短期的成果が出ないことを受け入れ、

時間のかかることをする心構えを持って挑むことが必要だ。

 

f:id:tsubasakato:20170704180617j:plain

とりあえず、最近は屋上で家庭菜園をしてます。

 

このギャップをどうしたら埋めていけるかなぁ、

段階的に、興味が行動へと移っていくにはどうしたらいいかなぁ、

と、改めて考え直し始めました。

また、このあたりは、考えていこうと思います。

卒論は、「農」的思想で書こうかなとも思っています。

僕自身、「農」というものがどういうものかを、ちゃんと理解しきれていないと思うので。

 

おそらく、「農業」と「農」に限らず、

例えば地域に伝わる「伝統」は、産業として利益が出にくいけれど、

精神的文化として、価値が見直されるだろうものはたくさんあるのだろうと思います。

 

 

つばさ