ヒエラルキーで苦しんだ僕は、ヒエラルキーの上を目指すのでなく、その外に脱出したい。
中学校、あるいは高校時代。
いつも、なんだか生きづらかった気がする。
特段、いじめられていたわけでもないし、
友だちと遊びに行くこともあった。
だから、直接的に苦しかったわけでもない。
だけど、いつも何かが、自分を縛っていた。
あるいは、何かで、自分を縛っていた。
どこの学校にも存在するであろう、ヒエラルキー。
それは概ね、
カッコよかったり、かわいかったり、
おもしろいことを言えたり、コミュ力があったり、
スポーツができたり、恋人がいたり。
なんとなく、一つの「モノサシ」で上下が決まる。
そして、それで言うと、僕は明らかに「下」に位置した。
それにずっと苦しんでいた。
なぜ、それが苦しかったのか。
それは、「下」であることもそうだけれど、
何より「上」への憧れというか、羨望というか、
そういう感情が、心の奥底で、激しく渦巻いていたこと。
その嫉妬心や、劣等感。あるいは、疎外感。
そして、これらの負の感情を揉み消すための、
強がり、見栄、虚栄心。
「僕は、「下」であることなんか気にしてない」と振る舞うことで、
必死で「上」に行けない自分を守ろうとして、
心の表層で蓋をし、自分の行動をコントロールしていた。
自分が「下」にいるヒエラルキーを嫌悪し、離れようとしながら、
同時にヒエラルキーに縋り付いていた。
そのヒエラルキーが、僕の生きる世界になっていた。
苦しみながら、同時に自ら苦しませていた。
遠ざかろうとしながら、同時に近づこうとしていた。
そんな自己矛盾に、ずっと気づけずにいた学生時代。
それから、大学に入って、社会に出て行くなかで、
ヒエラルキーが無くなったかと言えば、決してそうではなくて、
学歴や、年収や、会社の規模や、知名度が、
その「モノサシ」に取って代わられた。
ヒエラルキー社会での人間関係は、
相対評価での優劣のつけ合い。
もちろん、それが、良きライバルに出会い、磨き合い、
切磋琢磨できる仲間をつくることはわかっている。
競争が人々をより熱くし、より大きくすることはわかっている。
W杯、オリンピックがなぜおもしろいかと言えば、
やっぱり順位が決まるからだと思う。
どれだけ素晴らしい活躍をしても、
順位という結果がなければ、きっとつまらないと思う。
しかし、それはスポーツの論理だ。
学校や会社や人間関係を、競争原理だけで考えるのは好きじゃない。
競争原理もあってもいいけれど、それだけじゃ悲しいから。
それだけじゃ、いつまでたっても苦しいから。
人に認めてもらいたくて、「モノサシ」に沿っていったのに、
人に認めてもらうだけじゃ、満足できない自分がいる。
どれだけ「上」へ進んでも、
もっと「上」を見上げれば、焦がれるほど嫉妬するすげえ人がいて、
その空虚さを満たすために、「下」を探して優越感に浸る。
どうしても、どうしても、どうしても。
だめだ。
自分を変えない限り。
「頑張って」と応援しながら、「どうせできないよ」と心の中でつぶやく自分を。
「すごいですね」と言いながら、人の粗探しをする自分を。
「ヒエラルキーが嫌いだ」と声高に叫ぶことは、
ヒエラルキーに依存することと同じだ。
自分の立ち位置を決めているから。
だから、こんなブログを書かなくていいぐらい、
もっと、意識せずに、心の奥底から、人とフラットに向き合いたい。
そんな人間になりたい。
つばさ