「効率化」を、ちゃんと考えるということ
鳥取県智頭町へ、越してきてから早9ヶ月ほど。
なんとか食らいついてゆく日々であります。
のんびりと田舎暮らしを満喫しているかと言われれば、決してそうでもなくて、
特に僕は「暮らしづくり」を大きなテーマに、過ごしていきたいと思って、ここに住み始めたわけでありまして。
「暮らしづくり」というのは、
衣食住・教育・医療・エネルギー、
自分の暮らしに必要なものを、
できるだけ自分の手や想いを加えて、生きていこうよ。ということで、
つまりは、お金を払えば「消費」できる物ものを、少しずつでも、自分の手で「生産」していこうよ。ということ。
これが、僕がこれまで24年間生きてきたなかでの違和感、あるいは生きづらさ、あるいはなんとも言えぬ満たされなさ。
そう言ったものと、どうにか決別して、自分自身の暮らしというものを、なんとか生き抜いてゆくための、ひとつの仮説的な方法なのであります。
モノを「消費」して、
食を「消費」して、
サービスを「消費」して、
仕事を「消費」して、
暮らしを「消費」して。
そうしていった先に、生き死にの「消費」があるのだと感じていて、
やはり、そこから抜け出すには、ほんのわずかなことから、自分の手でつくり出してゆかなくてはいけないと、いまはそう思っているのです。
さて、けれど、やってみると、それがどんなに大変かがわかります。
やりたいことはたくさんあるし、やらなきゃいけんことはもっとたくさんある。
畑したいし、田んぼしたいし、
木工したいし、DIYしたいし、
漬物つけたいし、保存食を仕込みたい。
あるいは、
本を読みたいし、ブログ書きたいし、
本屋を出店したいし、たまにはごろごろもしたい。
人にも会いに出かけたいし、来てほしかったりもする。
でもそのまえに、
日中は山仕事に出かけ、
帰って来たら、夕飯と明日の弁当をつくり、
洗濯をして、風呂を薪で沸かして、
洗濯物を干して、風呂に入り、
マッサージをして、身体をメンテナンスをして、
次の日の仕事に備え、それなりに早く寝ないけぬ。
そんな日常のことが、時間とともに湧き上がってくる。
こうなったときに、1日24時間のなかで、
僕はどうやったら、やらなあかんことをやりきりつつ、やりたいことを少しずつでも進めていけるんだ!と、日々えんやこらと、考えて、試行錯誤して、「暮らしの効率化」みたいなところを工夫してみています。
ただ、僕はそもそも「効率化」みたいなところを毛嫌いしていた節はありました。
僕の専門は、社会経済学。資本主義の弊害みたいなところに興味があって、そのなかでは、
「効率化によって排除された物もの」のなかに大切なものがあるよね。
みたいな雰囲気が漂っていて、僕もそこに共感するところが大きかったからです。
もちろん、いまの物質的に豊かな社会、日常的に生命が脅かされない社会は、まったくもって素晴らしくて、
僕のこれまでの生活は、それによって支えられてきたのだから、それを否定していては、どうにもならないのですが、
それは頭でわかっていても、無意識的に「効率」というものから距離を置いていたように思います。
だけれども、
本当に、自分のやりたいことがあって、実現したい生き方があって、それに向かって、どうにか少しずつでも進んでゆきたいと思ったとき、「効率」というものを、ちゃんと受け入れることができた気がします。
もちろん、「暮らしの効率化」をするからといって、
料理することをやめて、カップ麺ばかり食べていたら、
「僕はなにがしたかったの?」という話になるから、
「効率化」するうえで、何をして、何をしないと決めるかは、
すごく重要なのだけれど。
何事もそうだけれど、
目的をもって、そのなかで効率化していくのが大事なんだろうなと。
そんなことを思いました。
効率化のための効率化、ではなく、ビジョンのための効率化。
関係ないけど、ジャムを煮詰める時間が好きです。弱火でじっくり、くつくつと。
年末まで、もう少し、がんばろう。
つばさ