「自然」とはなにか ー「森」の考察 その3
これまで「森」の話をしてきたが、
「森」の分類する、また別の見方を。
「自然」というものについて考えてみたいと思う。
これも「森」と同じように、当たり前のように使われながら、
定義が曖昧だったりする。言葉とは、そういうものだけれど。
僕が林業を志したとき、
木(=自然)を伐る「破壊者」としての側面と、
空気や水(=自然)を保つ「循環者」としての側面、
その矛盾感に答えを出せなかった。
人は自然がなければ生きてはいけないが、
その一方で、人間の行為、そのほとんどは、
自然を改変するもののように思われる。
僕はもちろん「循環者」としての林業家を目指したかったが、
そのバランス、人と自然との調和感をどこでどう保つのか、
それがまったくわからなかった。
「自然」というものを考えたとき、
「人類最初の自然破壊は、農業である」という考え方と、
「人間は自然から生まれたものだから、人間のすること全て自然である」
という考え方にぶち当たる。
どちらも偏っているように見えて、言いたいことはわかる。
一つの論理としては、正しいもののように思える。
ただ、一方で、ここで言われる「自然」という言葉、
そこでイメージしているものは、一致していないように思える。
では、「自然」とは何なのだ。
と、考える最中で、腑に落ちた答えがある。
人工とは、人間の意識がつくり出したものをいう。都会には、人間のつくらなかったものは置かれていない。樹木ですら都会では人間が「考えて」植える。
(中略)
他方、人間の体は自然に属している。身体は意識的につくったものではないからである。
「自然」の対義語として「人工」があり、
「自然」と「人工」の違いは、
人間の意識がつくったものか、そうでないかで決まる。
そう考えると、世界は違って見える。
手つかずの「森」は自然であるが、
人の植えたスギ林・ヒノキ林は、人工だ。
田んぼも人工、都会の街路樹も人工。
しかしながら、田んぼに生える稗は自然であり、
街路樹の下から生えるタンポポもまた自然である。
一方で、人の身体は、人工のようで人工のようでない部分もある。
呼吸や消化など、人間の意識の及ぶところではない。
それは自然の営みである。
すると、次に気づくのは、
「自然」と「人工」が混ざり合って共存していることだ。
都会にも湧き上がる自然はあり、
意識的な自分のなかにも、自然としての無意識がある。
こうした空間的共存だけではない。
植えたスギは、人間の意識の外で伸びていき、
田んぼの稲は、想定外の豊作や不作をもたらす。
田んぼ、スギ林、雑草...。見慣れた風景は、「自然」と「人工」の調和物。
瞬間的には「人工」だったものが、
「自然」の営みのなかで、時を経て、混ざり合っていく。
世界は、「自然」と「人工」、
どちらかでに分けられるものではなく、
時の流れとともに混ざり合い、移り変わるものである。
「森」というのも、その典型的な例だ。
「自然」の営みが、壮大なスケールで行なわれているからこそ、
「人工」が「自然」に飲み込まれてしまいそうだが、
その成り立ちを分けることで、
「森」というものをもう少し解像度をあげて、見ることができるのかもしれない。
つばさ