つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

「自然」とはなにか ー「森」の考察 その3

これまで「森」の話をしてきたが、

「森」の分類する、また別の見方を。

 

 

「自然」というものについて考えてみたいと思う。

これも「森」と同じように、当たり前のように使われながら、

定義が曖昧だったりする。言葉とは、そういうものだけれど。

 

 

僕が林業を志したとき、

木(=自然)を伐る「破壊者」としての側面と、

空気や水(=自然)を保つ「循環者」としての側面、

その矛盾感に答えを出せなかった。

 

人は自然がなければ生きてはいけないが、

その一方で、人間の行為、そのほとんどは、

自然を改変するもののように思われる。

 

僕はもちろん「循環者」としての林業家を目指したかったが、

そのバランス、人と自然との調和感をどこでどう保つのか、

それがまったくわからなかった。

 

 

「自然」というものを考えたとき、

「人類最初の自然破壊は、農業である」という考え方と、

「人間は自然から生まれたものだから、人間のすること全て自然である」

という考え方にぶち当たる。

 

どちらも偏っているように見えて、言いたいことはわかる。

一つの論理としては、正しいもののように思える。

 

ただ、一方で、ここで言われる「自然」という言葉、

そこでイメージしているものは、一致していないように思える。

 

 

では、「自然」とは何なのだ。

と、考える最中で、腑に落ちた答えがある。

 

 人工とは、人間の意識がつくり出したものをいう。都会には、人間のつくらなかったものは置かれていない。樹木ですら都会では人間が「考えて」植える。

(中略)

他方、人間の体は自然に属している。身体は意識的につくったものではないからである。

 『いちばん大事なこと』(2003)、養老孟司著、集英社新書p31-32

 

「自然」の対義語として「人工」があり、

「自然」と「人工」の違いは、

人間の意識がつくったものか、そうでないかで決まる。

 

そう考えると、世界は違って見える。

手つかずの「森」は自然であるが、

人の植えたスギ林・ヒノキ林は、人工だ。

田んぼも人工、都会の街路樹も人工。

しかしながら、田んぼに生える稗は自然であり、

街路樹の下から生えるタンポポもまた自然である。

 

一方で、人の身体は、人工のようで人工のようでない部分もある。

呼吸や消化など、人間の意識の及ぶところではない。

それは自然の営みである。

 

すると、次に気づくのは、

「自然」と「人工」が混ざり合って共存していることだ。

 

都会にも湧き上がる自然はあり、

意識的な自分のなかにも、自然としての無意識がある。

こうした空間的共存だけではない。

植えたスギは、人間の意識の外で伸びていき、

田んぼの稲は、想定外の豊作や不作をもたらす。

 

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田んぼ、スギ林、雑草...。見慣れた風景は、「自然」と「人工」の調和物。

 

瞬間的には「人工」だったものが、

「自然」の営みのなかで、時を経て、混ざり合っていく。

 

世界は、「自然」と「人工」、

どちらかでに分けられるものではなく、

時の流れとともに混ざり合い、移り変わるものである。

 

 

「森」というのも、その典型的な例だ。

「自然」の営みが、壮大なスケールで行なわれているからこそ、

「人工」が「自然」に飲み込まれてしまいそうだが、

その成り立ちを分けることで、

「森」というものをもう少し解像度をあげて、見ることができるのかもしれない。

 

つばさ