つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

自分の行動を、ボケとツッコミでわけてみる

今年の春から、通信制の大学に入った。

これはボケてるなぁと思う。

本屋を始めて、自分の本棚を人に見せるようになった。

これもボケてるなぁと思う。

一方で、本棚を見せながら、人の反応をうかがう。

これはツッコミだなぁと思う。

あるいは、ブログを書いて、自分の考えをさらしている。

これはボケだなぁ。

一方で、ブログを読んでくれた人の感想を聞く。

これはツッコミだなぁと。

 

 

今回の「ボケとツッコミ」という発想は、2年ほど前。

藤原辰史先生と、松村圭一郎先生の対談で、

藤原先生が、

「学者というのは基本的には「ツッコミ」が多いのだけれど、

松村先生はこの本(『うしろめたさの人類学』)を書くことで、

ボケの方にまわる仲間が増えた」

というような趣旨を嬉しそうにおっしゃられていたこと。

(詳細な言い回しは、正確ではないです。すみません。)

 

 

なるほど、と。

「ツッコミ」とは、客観的に物事を批判し、評価する力。

「ボケ」とは、積極的に行動し、事を起こし、形をつくる力。

 

お笑いを見ればわかるように、

ボケがあるから、ツッコミがあって、

ボケという行動があるから、ツッコミという指摘・訂正が入る。

そのボケが、一層おもしろおかしく演じられるからこそ、

「お笑い」というものが成立する。

 

 

また、話は変わるが、

ポケットマルシェ代表の高橋博之氏は、

政治家時代の経験から、

今の民主主義のあり方を「観客民主主義」だと表現した。

すなわち、

あれこれと意見し、要求し、

クレームをつける人びとはたくさんいるけれど、

実際に「一緒に変えていきましょう!」と呼びかけると、

行動に移すひとはいない。

自分がグラウンドに立って声をあげても、

みな、観客席から野次を飛ばすばかり。

グラウンドに降りようとしない。

そこで高橋氏は、政治から社会を変革することに見切りをつけ、

事業家として転身し、東北食べる通信を創刊した。

 

この「観客民主主義」という様相は

「消費社会」と密接に関わっていて、

どの分野においても、他人事ではない。

食でも、教育でも、医療でも、地域でも、

「お金を払えば、相応の対価を受け取れる」ことに慣れすぎた人びとは、

自分から行動する事を失い、

受け取れない不満ばかりが溜まっていく。

一方で、ますます過激になる要求に、

農家は、教師は、医者は、疲弊するばかり。

商品だけでなく、その裏側にいる人間までも、

知らず知らずのうちに「消費」される仕組みになっている。

 

 

さて、話は逸れたが、ボケとツッコミ。

世の中、ツッコミが多いと思う。

もちろん、ツッコミ自体、悪いものではない。

自分の初心に立ち返り、

あるいは自分勝手な行動を改めて見つめ直すには、

ツッコミの視点が必要である。

 

しかしながら、一方でツッコミは行動を抑止する。

特に、日本では、出る杭は打たれる。

こうなると「ボケ」は何もできないし、

これまで見てきたように、

「ボケ」がなければ何も起こらないのだ。

 

ボケとツッコミ。

どちらも必要であって、要は世の中バランスなのだけど、

観客席でツッコんでばかりいるのは、

賢いように見えて、実はとても楽なことでもあり、

そんな風になってしまうひとは多いのではないかと。

だからこそ、

「あぁ、いまボケてるなぁ」とか、

「最近ツッコミが足りねえなぁ」とか、

そういうことを自分のなかで意識していくことで、

観客席からツッコんでばかりいる人にならないですむのではないだろうか。

 

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つばさ

暮らしを「エンタメ」に、変えていく。

世は、共感の時代。

モノに溢れ、サービスが充実し、

お金によって価格づけされた対価を支払えば、

生活には支障がない。

 

そのなかで見直されるのが、

「心」の領域。

お金を払っても、

手に得難いものが、

相対的に価値が上がっていくのは、

確かにそうだろうなぁと思うし、

「共感」という言葉が、

広がっていくのも、

そう考えるとしっくりくる。

 

「関係人口」という言葉も、

「共感」をベースに据えた

人間関係の築き方を表したものだと思う。

 

 

マーケティングの世界でも、

生産技術が洗練され、

モノ同士の差異がどんどん縮まるなかで、

「共感マーケティング」なるもの、

つくり手の思いや、そのつくる過程、

「ストーリー」を伝え、

そこへの共感から、

自分たちのモノを選んでもらう、

というのが、言われるようになったと思う。

 

ひと昔前は、

「ブランド」が選択基準になっていたけれど、

情報に溢れ、ブランドが乱立するなかで、

確立することが難しくなったのだと思う。

 

だからこそ、

クオリティーを高めることはもちろんだけど、

クオリティーを高めるための苦労をも伝えることでしか、

「ブランド」は確立しえないのかもしれない。

 

 

 

そんなことは、

「東北食べる通信」編集部で

働かせてもらっている時に、

感じたことだった。

まさに、農業漁業の世界、

そのつくり手の世界への共感を、

呼び込もうとする1年間だった。

 

 

そんな期間を経て、

改めて、また実感する。

「共感」を惹きつけること、

それが、いかに大変か。

 

現代に生きる人びとは、

みな、限られた時間を生き、

それを埋め尽くすかのような、

広告、ニュース、娯楽、

さまざまな情報が、襲いかかる。

 

そのなかで、

「共感」を呼び込みたい。

「ストーリー」を伝えたい。

と、いくら思えど、伝えど、

丁寧につくり上げた言葉が、

膨大な情報の大海、

その一滴となってしまうことは、

なんともやるせなく、

もどかしいと感じた。

 

自分が思う「良い」情報。

自分が思う「正しい」事がら。

それらを、受け手にまず、届けるためには、

大海のなかから、

拾い上げてもらわなくてはいけない。

 

そして、基本的には、

皆がみな、僕と同じように、

「良い」一滴を大海に垂らし、

拾い上げてもらうことを、

心待ちにしているのだ。

 

 

ここまで思い至り、気付く。

いまでも、僕は、

僕の考え方を、

共感しうる誰かに伝えたくて、

そうすることで、

その人が救われて、

少しでも生きやすくなることを祈ってやまず、

もう少し願っていいのならば、

いっしょに未来を描く仲間がほしいと、

自分勝手に思う。

 

だからこそ、

僕の伝える事がらは、

「良さ」や「正しさ」よりも、

「たのしさ」や「おもしろさ」に輝き、

ふと心惹かれるものでなくてはいけない。

 

森のこと、林業のこと、自然のこと、

暮らしのこと、生きること、

それらを伝える言葉たちが、

他のFacebookの投稿や、

Twitterのつぶやき、

Amazonのレコメンド、

Youtubeの動画、

パズドラとかのゲーム、

それらを差し置いて、

心惹かれ、読まれうるものではなくては

いけないのだと、思う。

 

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畑も、本屋も、たのしみながらやるには、どうしたらいいかなぁ。 とか考えたり。

 

自分の暮らしを「エンターテイメント」にする。

そのためには、まず僕が、

自分の暮らしをおもしろく生きること。

 

そんなことが大事だなぁと思って、

自分の心に耳を澄ませ、

その動きをつぶさに感じながら、

心惹かれるものに、惹かれるままに、

行動していくこと。

 

そんなことを考えながら、

暮らしています。

このブログも、

果たして「読まれうる」のだろうか。

 

すぐにはうまくいかないだろうけれど、

試してみなきゃ、進まない。

日々、精進。

誰かを助けるために、まず自分の足で立とう。ずっとじゃなくていいから。

あまり感情を表に出すタイプではないけれど、

「人」というのが、結構好きで、

特に、いままで僕と出会い、

関わった友人、先輩、後輩、みんな、

少しでも明るく生きていてほしいなと思うし、

逆に、ネガティブになったり、

悪いことが続いて、

どうしようもなく、

動けなくなってしまったときには、

いつでも話を聞くし、

お金が必要なら、できるぶんまで協力するし、

できることがあればなんでもしたい。

そんな風に思っている。

 

ただ、そうは思っていても、

実際に、僕ができることなんて、

ほんのちょっとか、

まったくないか、

どっちかだ。

 

家族関係で悩んでいた人がいる。

うつで苦しんでた人がいる。

好きな友だちに「死のうかな」と相談された。

 

なにができるかと、

必死で考えるけれど、

その人の気持ちもわからず、

どうしたら解決するのか、

すぐに答えなんて出てくるわけがなくて、

「うん、うん」って、

話だけは、一生懸命聞きながら、

なにも言えずに、

最後に「僕にできることあったら、なんでも言って」

と、伝えて別れるのだけれど、

それから何かを、お願いされることはない。

 

 

まぁ、自分に置き換えてみれば、

すぐに、多少なりとも、理解できる。

自分が悩んでいるとき、

どうしようもなく、苦しいときに、

他の誰かができることなんて、

きっと思い当たらないだろうし、

たとえあっても、

それを頼めるのは、

本当に気を許せる人にだけだろう。

人になにかを頼むのなんて、

とてもじゃないけど、

恐ろしくて、申し訳ない。

 

 

だからね。

きっと、ほとんどのことは、

自分のことは、自分でなんとかしていくしか

ないんだと思う。

たまたま、タイミングが合って、

手を添えることができるときが、

あるかもしれないけれど、

いつもそんなことがあるわけじゃなくて、

自分で向き合って、

自分で一歩ずつ歩いていくしか

ないんだと思う。

 

 

だけどね。

そう思う一方で、

もし、そんなタイミングがあったら、

僕ができることを、

精いっぱい、しようと思うのです。

 

 

なんだか、他の人に伝わるか、わからないけれど、

僕が、山で仕事をして、

身の回りの暮らしに向き合って、

田舎で自然を強く感じながら、

それらをたのしく生き抜こうと、

いま、ここで暮らしているのは、

僕の知ってる誰かが、

悪いことが重なって、

どうしようもなくなってるときに、

逃げる場所というか、

避難できるところを、

どうにかしてつくっておいて、

もしそんなタイミングに出会うことができたら、

いつでも来ていいよ、

と、言えるようになりたいのかもしれないです。

 

 

そんな、あるかもわからないときのために、

やっているの?と、思われるかもしれないですが、

いつまでも、僕のこころに

焼き付いて消えないのは、

逃げ場のない人たちで、

なんとかしたいなと、

奥底で、ずっと思っているのかもしれないです。

 

だから、僕は、

いつでも誰かが来ていいように、

まずは、僕が、僕自身の足でしっかり立って、

たのしく生きていたいなぁと思うのです。

 

なにかあったら、

あるいは、なにもなくても、

いつでも、来てください。

もちろん、僕もふらふらしてしまう日も、

動けなくなっちゃう日もあるけれど、

そのときは、お返しに、少しだけ、

逃げ込ませてください。

 

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つばさ