つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

百点の空想よりも、十点の実物を

久しぶりに、本を読んで。

多少ネタバレあります。

 

何者 (新潮文庫)

 

「就活」がテーマだったけれど、

そこから広がって「大人になる」ことを、

改めて考えさせてくれた本です。

おもしろかった。

 

6人の大学3年生の夏から、

物語は就活を軸に展開していきます。

 

それぞれが、全員違った態度で就活に臨むのですが、

途中の話は全部飛ばして。

 

すごく印象的だったのは、

家庭に事情を抱え、自分がしっかり就職しなきゃと覚悟を決めた女の子が、

自分は会社が合わないから、就職なんて無理と言い続ける男の子に言った言葉。

 

 

自分の人生を一緒に見てくれる人

 

生きていくことって、きっと、自分の線路を一緒に見てくれる人数が変わっていくことだと思うの。

『何者』朝井リョウ著(新潮文庫p250

 

人生を線路に例えると、

高校生までは、親や先生、友達が、自分の進む線路を一緒に考えてくれた。

 

けれど、大学を経て、これから社会へ出るとき、

いよいよ僕らはひとりで自分の線路を見なきゃいけない。

親も、先生も、友達も、

いっしょに線路を見て、いっしょに考えてくれる人は、いなくなるのだ。

 

そして、社会に出てから、やがて結婚し、子どもができたとき、

今度は、誰かの線路をいっしょに見る。

歳を重ねるにつれて、そんな風に立場が変わっていく。

 

この言葉は、このことを指している。

 

それは、頭ではなんとなくわかっていても、

僕もまだ、どこか抜け出せてないんじゃないかなと。

 

f:id:tsubasakato:20170723074951j:plain

同じ線路を同じ目線で見てくれる人は、もういなくなるのだ。

 

百点の空想よりも、十点の実物

 

十点でも二十点でもいいから、自分の中から出しなよ。自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから。

(中略)

百点になるまで何かを煮詰めてそれを表現したって、あなたのことをあなたと同じように見ている人はもういないんだって

『何者』朝井リョウ著(新潮文庫p254

 

自分の線路をいっしょに見てくれる人がいなくなる。

だからこそ、僕らはなにかをつくっていかなきゃいけない。

 

留学や、休学や、インターンや、

そんなことでは、まだまだ百点のものをつくることはできないけれど、

なにかを自分のなかから出さなければ、誰も僕のことを見てくれないのだ。

 

頭のなかで、百点のものを空想していても、

外に出して、人の線路の上に置かなきゃ、誰もそれを、見てくれないのだ。

 

 ----

この言葉が響いたのは、

ともすれば、僕のブログも「百点の空想」に成り得てしまうなという危機感。

書いた言葉を、十点の実物として外に出すか。

百点の空想として、頭のなかだけで満足してしまうか。

 

どちらにも成り得るもので、空想を語って、その過程づくりに甘えることはせず、

少しずつでも、誰かに役に立てるだけのものを、身を削ってつくっていこう。

そう思いました。

 

 

他にも、6人の就活生それぞれの生き方から、

共感できるところ、共感できる自分の欠点が多々あって、

改めて自分を見つめ直せる小説です。

特に同世代には、

あるいは、いまの就活を知らない人も楽しめると思います。

 

何者 (新潮文庫)

 

 

つばさ

まず僕らは「理想のコミュニティ」を、捨てる必要があるかもしれない

最近、「人との繋がり」とか、

「コミュニティ」とかいう言葉を使わないようにしています。

 

人がどんどん、個人に、孤独になっていく一方で、

「人との繋がりが大事」だとか、

「コミュニティを取り戻そう」とか、

そういう方向も生まれてきているのだと思います。

 

けれど、僕はいま、「繋がり」という言葉が、

綺麗事に聞こえてきてしまいました。

 

「繋がり」があったほうが、楽しい。

「繋がり」があると、安心。

 

それはそうなんだけど、

自分の楽しさ、自分の安心のことにばかり集中してて、

「繋がり」の先の相手が見えない気がしてて。

 

何より、僕のなかで、

理想の「コミュニティ」というものが、わからなくなってきたのです。

みんながみんな、嬉しいコミュニティとは、どんなものか。

 

誰か、自分なりの答えを持つひとは、教えてください。

 

 

「自分」しか見てないコミュニティ論

 

みんな仲良く楽しくて、

お互い何でも言い合えて、

お互いがお互いのことを認め合ってる。

閉鎖的じゃなくて、

いつでも誰でも出入り自由、

抜けたいときに抜けれるし、

入りたいときに入れる。

あたたかい「繋がり」があるけど、

その「繋がり」が足かせになることはない。

 

 

理想のコミュニティを議論するときに、

だいたい「良い」とされるコミュニティを並べてみました。

 

これを聞いてどう思いますか。

確かに、理想的なコミュニティだとは思います。

けれど、本当に自分勝手だなとも思います。

 

このコミュニティはほとんど、「自分」から見た理想です。

なんでも言いたいことは言いたい。

認めてくれる人がほしい。

抜けたいときに、後腐れなく抜けたい。

入りたいときに、不安な思いをせずに入りたい。

 

それはそうだ。

自分から見たら、その方がいいに決まってます。

 

けれど、そうされる「相手」側からしたらどうでしょうか。

なんでも言いたいことを言われる。

抜けたいときに、勝手に抜けられる。

入りたい人がいたら、それが誰でも迎えいれなきゃいけない。

 

ちょっと誇張してるかもしれませんが、

「相手」からしたら、こういう捉え方をされることもあると思います。

 

みんながみんな、言いたいことを言われたいのでしょうか。

誰かが急に抜けたときに、それを良く思わないひとは本当にいないのでしょうか。

知らない人が入ってきたときに、それを怖いと思うひとはいないのでしょうか。

 

僕の思う限り、そんなことはないです。

というより、僕が誰かにそうされたら、

どちらかというと負の感情を抱いてしまうのです。

 

僕は、

誰にでも言いたいことを言われたいと思うほどできた人間ではないし、

自分勝手に抜けられたら、理由の如何によるけれど、「はぁ?」と思う人間だし、

知らない人が入ってきたら、少なからず身構える人間です。

 

誰かにとって、理想的なコミュニティは、

誰かにとって、理想的なコミュニティではないのかもしれない。

 

僕が、「人との繋がり」や「コミュニティ」という言葉を発する時、聞く時、

何か綺麗事だと感じてしまうのは、

その言葉を使った人が、「自分にとって理想的なコミュニティ」しか

考えていないからなのかもしれない。

 

f:id:tsubasakato:20170719173123j:plain

自分の「理想のコミュニティ」は、相手の「理想」ではないかもしれない。

 

ある意味、僕も含めて、

やはり自分にとって都合の良い「繋がり」や

「コミュニティ」しか求めていないくて、

まあ、それが「理想」ではあるのだから、

求めるのも仕方ないかもしれないけれど、

やっぱり、「コミュニティ」が他者の存在がないと成り立たない以上、

「自分から出発する理想のコミュニティ」

「相手から出発する理想のコミュニティ」の、

接続面を探り合わなければ、何も進まないのだと思ったところです。

 

f:id:tsubasakato:20170719173416j:plain

コミュニティは、違うひと達の集まり。理想のコミュニティは、この中心にある気もする。

 

あなたにとって、理想のコミュニティはどんなものですか。

みんなにとって、理想のコミュニティはどんなものだと思いますか。

 

そんなことを聞いてみたいです。

 

つばさ

僕の憧れるひと:山地酪農家・中洞正さん

経済合理性よりも、大切なことがある。

そう、信じています。

 

「お金がなきゃ、続かない」

「守るものがないから、そんなことが言える」

「夢だけじゃ食っていけない」

 

そんなことは、知っている。

二兎を追うことは、一兎を追うよりも難しい。

もう、言われなくても、当たり前だ。

当たり前のことを、何度も言わなくてもいいじゃないか。

 

もっと夢を語ろう。

もっと楽しい話をしよう。

そこにどんなに困難なことがあっても。

分かち合えば、助け合える。

仲間になれば、応援し合える。

 

そんなふうに思わせてくれた言葉があります。

 

 

「夢を追わなきゃ、青春じゃないだろう!」

 

 

これを聞いたのは、岩手の酪農家の人から。

この方の人生を知ってほしくて、この記事を書きます。

f:id:tsubasakato:20170719102605j:plain

いまでも現場に出続ける、中洞(なかほら)正さん。

 

青臭くても、自分の信じた夢を追い続ける。

その姿に、心を打たれます。

 

酪農家の方なので、唐突ですが、「牛乳」の話から。

「牛乳」の裏側、みなさん知ってますか?

僕も半年前まで、まったく知りませんでした。

読み始めた方、ぜひ最後まで。

 

目次

 

 

酪農に押し寄せた、近代化の波 

 

戦後、酪農には大きな波が押し寄せました。

近代化、そして効率化です。

一頭あたりの乳量を多くすることを目的に、

今日多くの乳牛は牛舎で密飼い、輸入の濃厚飼料を食べています。

その方がコストが下がり、生産性があがるのです。

 

特に、牛の牛舎飼いが進んだのは1987年。

農協に出荷する生乳の取引基準が「乳脂肪率3.5%以上」とされ、

それ以下の生乳は半値で買取とされたことが大きな要因です。

 

これが何を意味するか。

自然放牧の牛は、春から夏にかけて青草を多く食べる頃、

乳脂肪率が3.5%を下回ることもあり、安定しません。

では、常に3.5%を超えるためには?

それは高カロリーの輸入濃厚飼料を与えていれば可能です。

つまり、この規定は実質、半強制的な牛舎飼い。

日本の酪農は放牧を捨てざるを得なかったのです。

 

f:id:tsubasakato:20170712215143j:plain

市販の牛乳には、「3.6」「3.7」など、乳脂肪率が書かれています。 

 

幸せな牛から、おいしい牛乳

 

この大波の中で、24時間365日の自然放牧を実現したのが、

岩手県岩泉町・「なかほら牧場」中洞正さん。

標高700mを超える広大な山地に、約90頭の牛を放牧しています。

餌は、基本的に自生する野シバ。

この「山地酪農」という方法で、牛を飼っています。

nakahora-bokujou.jp

 

 

効率ではなく、自然の摂理を一番に。

その中で人間は、循環のサイクルを手助けする存在になるのだと言います。

そのため、交配、受精、分娩も牛まかせ。

年を重ねて乳量の減った牛も飼い続け、20年近く生きた牛もいます。

 

一方で近代酪農では人工授精を繰り返し、乳量の減った牛は肉牛として処分。

密飼いで病気にもかかりやすく、平均寿命は6~7年です。

「牛がしあわせだからこそ、おいしい牛乳ができる」と中洞さんは語ります。

 

f:id:tsubasakato:20170714005408j:plain

「なかほら牧場」での放牧の様子。牛乳のパッケージにあるような放牧はもうほとんどないのだそう。 

f:id:tsubasakato:20170714005647j:plain

標高約700m。豪雪の北上山系でも、たくましく生きる牛たち。

 

一本1000円の牛乳を売る

 

中洞さんの飼い方は、経済合理性からは逸脱します。

乳量はとても少なく、通常の約1/5だそうです。

 

けれど、それは牛や自然という生き物に、

真正面から向き合い、その幸せを第一に考えるからこそ。

 

その結果、できる牛乳は一本1000円というもの。

しかも、先に述べたように、この牛乳は農協には出荷できません。

乳脂肪率が安定しないためです。

 

だからこそ、牛舎飼いを進める行政と袂をわかち、

中洞さんは、牛乳の生産・加工・販売を一貫して行う牧場づくりを、

まさにゼロから創り上げてきました。

その期間、40年以上。

気の遠くなるような夢を、追い続け、実現してきたのです。

 

この理念や生き様に惹かれ、

「なかほら牧場」には、毎年200人以上の研修生が訪れます。

若者も多く訪れます。

 

僕も、去年ここを訪れ、ここの場所、ここのひとに魅了されました。

今年の夏もまた訪れようと思っています。

 

 

ここに書いたのは、ごくごく一部で、

もっと深い牛乳の話が、

もっと壮絶な中洞さんの人生があります。

興味を持ってくれた方、本かHPで見てみてください。

あるいは、いっしょに現地へいきましょう。

目の前に広がる景色に、成し遂げてきたことの大きさに、呆然とします。

 

山地酪農家 中洞正の生きる力 (ソリストの思考術)

 

 

僕の憧れのひと、憧れの生き方です。

僕も、ずっと青春でいられるように。

 

つばさ