つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

ヒエラルキーで苦しんだ僕は、ヒエラルキーの上を目指すのでなく、その外に脱出したい。

中学校、あるいは高校時代。

いつも、なんだか生きづらかった気がする。

 

特段、いじめられていたわけでもないし、

友だちと遊びに行くこともあった。

だから、直接的に苦しかったわけでもない。

だけど、いつも何かが、自分を縛っていた。

あるいは、何かで、自分を縛っていた。

 

どこの学校にも存在するであろう、ヒエラルキー

それは概ね、

カッコよかったり、かわいかったり、

おもしろいことを言えたり、コミュ力があったり、

スポーツができたり、恋人がいたり。

なんとなく、一つの「モノサシ」で上下が決まる。

そして、それで言うと、僕は明らかに「下」に位置した。

それにずっと苦しんでいた。

 

なぜ、それが苦しかったのか。

それは、「下」であることもそうだけれど、

何より「上」への憧れというか、羨望というか、

そういう感情が、心の奥底で、激しく渦巻いていたこと。

その嫉妬心や、劣等感。あるいは、疎外感。

そして、これらの負の感情を揉み消すための、

強がり、見栄、虚栄心。

「僕は、「下」であることなんか気にしてない」と振る舞うことで、

必死で「上」に行けない自分を守ろうとして、

心の表層で蓋をし、自分の行動をコントロールしていた。

 

自分が「下」にいるヒエラルキーを嫌悪し、離れようとしながら、

同時にヒエラルキーに縋り付いていた。

そのヒエラルキーが、僕の生きる世界になっていた。

苦しみながら、同時に自ら苦しませていた。

遠ざかろうとしながら、同時に近づこうとしていた。

そんな自己矛盾に、ずっと気づけずにいた学生時代。

 

それから、大学に入って、社会に出て行くなかで、

ヒエラルキーが無くなったかと言えば、決してそうではなくて、

学歴や、年収や、会社の規模や、知名度が、

その「モノサシ」に取って代わられた。

 

ヒエラルキー社会での人間関係は、 

相対評価での優劣のつけ合い。

もちろん、それが、良きライバルに出会い、磨き合い、

切磋琢磨できる仲間をつくることはわかっている。

競争が人々をより熱くし、より大きくすることはわかっている。

W杯、オリンピックがなぜおもしろいかと言えば、

やっぱり順位が決まるからだと思う。

どれだけ素晴らしい活躍をしても、

順位という結果がなければ、きっとつまらないと思う。

 

しかし、それはスポーツの論理だ。

学校や会社や人間関係を、競争原理だけで考えるのは好きじゃない。

競争原理もあってもいいけれど、それだけじゃ悲しいから。

それだけじゃ、いつまでたっても苦しいから。

人に認めてもらいたくて、「モノサシ」に沿っていったのに、

人に認めてもらうだけじゃ、満足できない自分がいる。

どれだけ「上」へ進んでも、

もっと「上」を見上げれば、焦がれるほど嫉妬するすげえ人がいて、

その空虚さを満たすために、「下」を探して優越感に浸る。

 

どうしても、どうしても、どうしても。

だめだ。

自分を変えない限り。

 

「頑張って」と応援しながら、「どうせできないよ」と心の中でつぶやく自分を。

「すごいですね」と言いながら、人の粗探しをする自分を。

 

ヒエラルキーが嫌いだ」と声高に叫ぶことは、

ヒエラルキーに依存することと同じだ。

ヒエラルキーを嫌う」というアイデンティティを持って、

自分の立ち位置を決めているから。

だから、こんなブログを書かなくていいぐらい、

もっと、意識せずに、心の奥底から、人とフラットに向き合いたい。

そんな人間になりたい。

 

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つばさ

本屋の構想ーーー「儲かるからやること」は、誰かがすでにやっているんだ。でも、それだけじゃつまらないじゃん。

本屋を開く。

最近、時間を割いていること。

 

だけど、実際は「本屋」からイメージできるほど、

大きなものじゃなくて、

借家の縁側を少し拡張して、

四畳半のスペースに本を並べて、

「本屋」と名付けようと思ってる。

 

組織に属して、林業に携わるから、

本屋に立っている時間も少ない。

けれど、本を選んでいるとき、

店員がいると本に集中できない僕としては、

「そもそも本屋に店主っている?」

と感じているので、

無人本屋にでもしようと思っている。

 

(特に小さな本屋で、店主からずっと見守られていると、

何か会話しなきゃいけない気がしてくるし、

恥ずかしくて同じとこをずっとぐるぐるできないし、

ということが気になってしまう人間なので、

本屋を開くと言いながら、

僕自身は、あんまり小さな本屋に行かない笑。

ブックオフや新刊書店のほうが好きだ)

 

店主の意味は、「選本」。

それがほとんどだと思う。

けれど、そういう人ばかりでなく、

本屋で、店主と本に関係あること、ないことを話しながら、

本を見るのが好きな人もいるだろうから、

そういう人には、事前に連絡をしてもらうとか。

そんなことを考えている。

 

とか言いながら、

実際に店にまで来る人はいると思っていないから、

ときどき土日にマルシェとかで出店できたら

たのしいだろうなぁと。

僕の中でも想像ができるから、

そっちの方が最初はメインになると思っている。

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「縁側本屋」みたいなの、いいな。

 

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「本屋」という店を持とうと考えたとき、

「どう回していくか」という収益性をやっぱり考えたけれど、

現時点で、本屋単体で収益を上げることは

ほとんど考えていない。

それよりも、自分のやりたいことに、挑戦してみたい。

 

「お金よりも~」みたいな話をすると、

「現実はそんなに甘くない」

「お金がなきゃ、やってけない」

みたいに言われるかもしれないけれど、

(実際には言われたことないけど、今でも思う人はいるのかな)

僕もそれはわかっている。

実際に、自分で稼ぎ始めて数ヶ月。

まだまだだと言われれば、そうかもしれないけれど、

人から言われて、「そうなのか」と納得できるほど、

僕は、素直じゃない。

結構、頑固な方だと、自分でも思っている。

 

 

僕は、お金をたくさん稼ぐよりも、自分らしく生きたい。

だから、「自分らしく生きる」ためのお金さえあればいい。

そう考えると、「本屋」が単体で継続できることはどうでもよくて、

「加藤翼」の生活が、その経済が回っていれば、それでいい。

 

そもそも、お金がたくさん稼ぎたければ、

都会の大手企業に就職している。

(都会の大手企業に就職する人が皆、

お金を稼ぎたいと思っていると決めつけているわけではないです)

でも、僕は、

仕事と暮らしを分けたくなかったし、

自分のすべての行動を「生きる」ことと結びつけたかった。

食うために働くのではなく、

ましてや、働くために食うのではなく、

生きるように食べ、

生きるように働き、

生きるように眠り、

生きるように暮らす。

いい意味で、公私混同させたかった。

総じて、「生きていたい」と思った。

 

「儲かるからやること」は、誰かがやっている。

「儲からないけど、好きだからやること」に、自分らしさが出る。

そう思っている。

 

と、いう訳で、

生きるように、本屋を開きたいと思ってます。

まずは、7月末に出店してくるので、

それまでに開けたらいいなぁ。

第5回 ELEVEN VILLAGE 文化祭キャンプ (7/28,29 @岡山県高梁市

興味のある方、よかったら温かく見守ってください。

 

つばさ

「消費」の楽しみ、「生産」の愉しみ

鳥取県智頭町へ引っ越してきて3ヶ月ほど。

いろいろつくってみた。

 

味噌、ハーブ畑、梅シロップ、

洗濯物干し場、生ゴミコンポスト

木のしゃもじ、木の栞、木のブックスタンド、木の小鉢。

いまは畑にいろいろ植え付け中。

 

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洗濯物干し場。伐ってきた竹と紐で、完成。

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ダンボーコンポスト。料理で出た生ゴミを堆肥に変える。

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杉を掘ったしゃもじ。二作目を鋭意製作中。

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植物を入れる小鉢。穴開けるの、すげえ大変。

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植え付け中の畑。いまは右奥一畝だけ完了。

 

田舎は、都会のような便利なモノは多くない。

コンビニ、ショッピングモール、カラオケ、飲み屋などなど。

それらを求めるなら、都会の方がいいに決まってる。

それは事実だと思う。

 

じゃあ、田舎はどうやって人を呼ぶのか。

それは「便利さ」という軸から外れることだと思っている。

 

都会の便利さとは、「消費」の楽しみだ。

お店が多い。それはつまり、お金を払って受けられるサービスが多いということ。

逆に言うと、お金がなければ楽しくない。

高級なお寿司屋さんも、高級なアパレルショップも、買えなければ楽しくない。

 

だからこそ、田舎は「生産」する愉しみを打ち出すべきなんじゃないかと思っている。

近くの竹林で、竹を伐ってこれる。

広い畑を借りて、農作業ができる。

木材と道具をもって、木工品づくりができる。

 

田舎にとっては当たり前のようで、この環境は価値だと感じている。

都会では、農業するには、年数万円を払って体験農園をするし、

モノづくりをするための材料も揃いがたく、

そもそもDIYできる家に住んでいなかったりする。

 

人とサービスに溢れる都会だからこそ、

一人一人のスペースが狭く、つくるための「余白」が少ない。

一方で、田舎では土地も家も余り、材料は周りにあふれている。

もちろん田舎は田舎のルールがあるけれど、

「余白」は田舎の方が圧倒的に大きい。

 

そう考えると、都会の方が「自由」ということも見方次第で、

田舎の方が「自由」だと感じる人も多いのかもしれない。

 

 

だから、僕は「都市」と「地方」というわけ方も好きじゃなくて、

僕の生まれ育った長野市も、十分に便利な街だったし、

「都市」と「地方」は、ただ首都の東京とそれ以外、という程度の

違いしかないのだなぁと、ある時思うようになった。

 

また、「地方創生」の名の下で、

企業や大型施設を誘致するのは、

「便利さ」のモノサシの中で、東京と張り合うことになるから、

「地方」の衰退の根本的な解決にならないんじゃないのかなぁと思うようにもなった。

 

 

もっと田舎の村や町が、

「自分の暮らしをつくること」に目を向けて、

「この村に来れば、こんな暮らしができる」というのを明確に打ち出して、

その余白を、環境をつくることが、田舎の行政がやるべきことで、

それができたところが生き残っていくんじゃないかなぁと。

 

 

「まちづくり」なんて、やったことないし、

そんなに興味がないから、簡単に言えるのだろうけれど。

約3ヶ月の日々を、そんな風に思いながら暮らしてます。

たのしく生きていきたい。

 

つばさ