つばさの軌跡

京都大学5回生。「むらづくり」「生態系づくり」をする仲間を求め、いま思うことを発信する。ブログのテーマは「誰かと心を通わすこと」

「自然」と「人工」の境界線

 

「自然」ってなんだろう。

 

農業や林業に興味を持ち始めて、ずっと気になっていることでした。

 

どちらも自然と近い場所で暮らすと言うけれど、

実際に「自然」が何を指すのかわからない。

 

イメージでは、森や、田んぼや、渓流だけれど、

人工林もあるし、田んぼは人がつくったものだし、

護岸工事されていない川の方が珍しい。

 

林業は、木を伐ることになる。それは果たして、「自然」なのか。

農業は、土を掘り返し、人間に都合のいい作物を植える。

じゃあ、田んぼは、畑は、「自然」なのか。

 

それは、見方によっては自然破壊だ。

実際に、「農業こそ、人類が行った最初の環境破壊だ」

という意見もある。

www.foodwatch.jp

 

一方で、人間自体も自然にできたものだから、

人間がすること全ては「自然」だ、という意見もある。

 

どちらも、「そうだなぁ」と思いながら、

でも、しっくりこない感じがあったけれど、やっと納得できるものに出会った。

それを紹介します。

 

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杉だけ生える林は、「自然」か。

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日本の原風景は、戦後に区画整備された田んぼ。純粋な「自然」ではない気がする。

 

「自然」とは。「人工」とは。

 

感動するほど納得したのは、この本だ。

いちばん大事なこと―養老教授の環境論 (集英社新書)

 

人工とは、人間の意識がつくり出したものをいう。都会には、人間のつくらなかったものは置かれていない。樹木ですら都会では人間が「考えて」植える。

(中略)

他方、人間の体は自然に属している。身体は意識的につくったものではないからである。

 『いちばん大事なこと』(2003)、養老孟司著、集英社新書、p31-32

 

「自然」と「人工」の違いは、

人間の意識がつくったものか、そうでないかで決まる。 

 

そう考えると、世界が違って見える。

人の植えた森は、やはり人工だ。田んぼも人工だろう。

都会の街路樹も、いかに植物といえど、人工になる。

だけれども、街路樹の下の地面から生える草は、自然である。

コンクリートの隙間から芽吹く花も、自然だ。

 

逆に、人の身体は、人工のようであって人工ではない。

特に呼吸や消化器官などは、人の意識の及ばないところにある。

それは、自然の営みである。

 

すると、次に気づくことは、

「自然」と「人工」は共存しているということ。

 

都会にも、ふつふつと湧き起こる自然はあり、

自分の中にさえ、自然の存在が感じられる。

あるいは、田んぼという人工物には、カエルやタニシが棲みつき、

新たな生態系が生まれる。

まさに、「自然」と「人工」が混ざり合った環境である。

 

世界は、「自然」と「人工」が、

時間的空間的に、混ざり合い、濃淡が変わり、流動し続ける。

決して明確に分けて論ずることのできるものではない。

 

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「人工」から湧き起こる、「自然」。 

 

二項対立から、同一化へ。支配から、共生へ。

 

そもそも、「自然(シゼン)」という言葉は、明治時代までなかったという。

「nature」の訳語から、「自然」という言葉が生まれたのだ。

 

それまでは、日本には「自然(ジネン)」という考え方があった。

「自然(ジネン)」とは、その通り「自ずから然らしむ」こと。

まさに、「人の意識がつくりださないもの」である。

 

つまり、「自然(シゼン)」とは、西洋的な考え方であり、

人間と自然、この両者を分け、対立させる視点である。

それでいて、人間が自然を支配する方向へと持っていく思考である。

 

一方で「自然(ジネン)」とは、古来の日本的な考え方で、

原生林や、野生の動植物など、人間と対立する「自然」ではなく、

人間もその一部となるような森羅万象のことをいう。

 

そう考えると、いかに日常で使う「自然」や、

特に「自然保護」などと言うときのものが、

人間とは別の場所にあるもののような感覚で使っている自分に気付く。

そこで既に、乖離が生じているのである。

 

「自然(シゼン)」という言葉の納得し難さはここにあり、

本来、頭のなかから、人間と自然という分離もなく、

人間もそのなかの一部だったのだと思えば、あるべき姿が見えてくるなと思う。

 

すなわち、全ては「自然(ジネン)」の循環のなかで、

その資源を使い過ぎることなく、必要な分だけ使い、

使い終わったら、また循環のなかへと還元していく。

そんな人間の生そのものが、「自然(ジネン)」に含まれる状態。

 

まだ明確なものは見えないけれど、

一次産業も、自分の暮らしも、そこに近づけていきたいなと。

そう思いました。

 

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 生きることそのものが、「自然(ジネン)」のなかにある暮らしを。

 

納得することの多い本でした。

いちばん大事なこと―養老教授の環境論 (集英社新書)

 

つばさ

僕の好きなアーティスト【高橋優】

 

「高橋優」

 

好きなアーティストを聞かれたら、迷わずそう答えます。

この方の歌で、僕は一回救われたので、紹介したいです。

 

もうメジャーになったと思うけれど。

ピンと来ない方は、ダイハツのCMなら聞いたことあるでしょうか。

 


ダイハツ cm ポスト 篇 山﨑賢人

 

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この方です。

 

 

僕が初めて知ったのは。遅いんですよね。去年の秋頃。

先のCMでは聞いたことはあったけれど、それ以外は恥ずかしながら知らなくて。

 

そのときは、休学してインターンをしていて、毎日仕事ばかりすることが多くて。

それから、都内で小さいながらも、自分ひとりで企画から準備、当日運営まで、

全部を取りまとめるイベントの1週間前ぐらいで。

集客も大変だし、打ち合わせも思うように進まないし、

日中ずっと仕事して、夜も帰って家でカタカタと広報を続けてたんです。

 

泣き言を言うようだけれど、プレッシャーでずっと心が休まらなくて、

全部投げ出してやめたいなと、ふと心の中に浮かんできてしまって。

それを、一生懸命かき消しながら、手を動かす日が続いていて。

 

夜、家でも疲れてきっていたけれど、どうにか進めなきゃいけなくて、

眠気覚ましに、テレビをつけてみたんです。

 

そこでたまたま見たのが、「A-studio」で高橋優さんが出演していた回。

番組も終盤で、トークの後に歌を歌うということで、

聞こえてきたのが、『BEAUTIFUL』でした。

 


高橋優 「BEAUTIFUL」リリックビデオ

 

ひとりで見てて、心に染みてきて、泣きそうになった。

もう、画面から張りつくように聴き入り、

聴き終わったら、Youtubeを開いて、同じ曲を探し始めた。

 

今にも泣き出しそうな心が、聞いているうちに静まってきて。

まるで、あたたかい何かが、心を傷ごと包んでくれる気がした。

それから、自然と「あと少しだけ、やりきろう」と感じた。

この歌があったから、イベントもやりきることができたと思う。 

 

誰かの歌で、ここまで感動することはなかった。

誰かの歌で、ここまで力をもらうことはなかった。

 

まっすぐな言葉を、まっすぐな心で歌う

 

ここから、高橋優さんを知って、ずっと聞くようになった。

この方のプロフィールや、性格はほとんど知らないのだけれど。

(あまりアーティストの方の生い立ちは、知りたくない方なようで)

 

けれど、歌を聞いてて感じるのは、

「この人は、みんなが笑うような綺麗事も、笑われると知りながら信じていて、

同じように笑われて傷つく人を勇気づけようとする心の優しい人なんだろうな」

ということ。

 

「明日はきっといい日になる」とか

「この世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」とか

「君は美しい」とか。

 

すごくまっすぐで、すごく簡単で、

心がこもっていないと、他人事のように聞こえてしまう、紙一重の言葉を、

その言葉の通り、まっすぐに、相手の心に向き合って歌うんだなあと。

だからこそ、まっすぐな言葉が、まっすぐ心に届くんだと思います。

 

この、まっすぐさが、僕は好きです。 

 

 

せっかくなので、僕の気に入った歌、3つを。

よければ、聞いてみてください。きっと心があたたかくなります。

 


高橋優 「福笑い」

「憎しみが入る隙もないくらい笑い声が響く世界ならいいのに」

 


高橋優 「BEAUTIFUL」リリックビデオ

「ここまで来れたことが素晴らしいよ」「君は美しい」

 


高橋優初監督MV作品「明日はきっといい日になる」オモクリ監督エディットバージョン(Short size)

「思い通りの人生じゃないとしてもそれも幸せと選ぶことはできる」

 

 

みなさんの好きなアーティストは、誰ですか?

 

つばさ

「地方」イメージで語らない。自分の目で見て、頭で考える。

  

前回のブログで、就活で思ったこととともに、

「地方」に興味を持った経緯を書きました(↓)

tsubasakato.hatenablog.com

 

「地方」というイメージに惹かれてはいないか

 

でも、いろんな人に会っていると、よく聞かれるのが、

「なんで地方に興味があるの?」ということ。

 

そこで、「いや、東京には行きたくなくて」という話をしても、

自分自身、全然楽しくない。

「え、消去法なの?」って感じ。

 

地方に興味はあるのだけれど、

「地方の魅力ってなに?」と聞かれるとわからない。

地方だけじゃなくて、18年間育った長野市も、

高校生までいただけで、そのときは学校と家の往復。

長野市の良さや問題点なんて、考えても出てこない。

 

じゃあ、僕は地方になにを期待しているか。

思いついたらシンプルで、つまりは「地方へのイメージ」だと思った。

 

東京は、騒々しくて、慌しくて、人が使い捨てにされていそう。

地方は、人が温かくて、穏やかで、一人一人が大切にされていそう。

 

こんなイメージだろうか。

 

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長野駅前。割と街中。向かいのビルにはドンキがある。外国人もよく見かける。「長野」感はないかなぁ。。

 

「地方イメージ」からの脱却

 

「地方に興味ある」という理由が、「地方へのイメージ」だとわかったら、

「地方」と「都会」は別にどうでも良くなった。

 

「東京は人間関係が希薄で」と言っても、

実際、東京に住んだことあるわけじゃないし、

長野市の人間関係が、濃くてあたたかかったかと言われると、そうも思えない。

東京で、濃く楽しい人間関係を築いている人もいるだろう。

 

だとしたら、「地方」と「都会」の違いは何か。

そもそも、「地方」とはどんな場所を指すのか。

自分が「地方」に行くならば、そこで何を目的に、何を解決するのか。

 

そんな問いがたくさん出てきて、

「地方」や「都会」という言葉を曖昧に使っていたのだなと感じた。

 

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地方の住宅街に、あたたかさはあるのか。

 

だからこそ、それらの言葉に囚われすぎることなく、

もっとそこに住む人々の暮らしや思い、食、文化、産業、行政など、

「地方」という言葉では一般化しえないものに目を向けるようになった。

「あたたかい人間関係」が残る「イメージとしての地方」よりも、

もっと深く、具体的なものを、探すようになった。

 

「地方だから」「都会だから」というのは、あまりにも一般化しているし、

「あたたかい人間関係」は、そもそも場所に求めてはいけない。

というのも、いま思うことだ。

どこにいても、人間関係は求めるものでなく、自分から築くものだと思った。

 

 

誤解して欲しくないのは、

イメージで興味を持つことを否定しているわけではないこと。

それは、新しい世界を知るための一歩だと思う。

書いたように僕自身、「地方イメージ」なんかで、動き出していたことが多い。

けれど、興味を持ったものの実態が、どうであるかを見極め続けなければ、

自分自身が、誤解したまま進んでいくことになるかもしれない。

 

「地方に興味がある」という人は、

もっと具体的に「地方の何に興味があるのか」を考えてみると、

もっとやりたいことが明確になるかもしれないなぁと。

 

 

つばさ