つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

就活をしていて思ったこと。

 

大学3回生の夏。

企業のサマーインターンに参加していた。

「就活」初めの一歩。

 

このときは、「働く」ことを自分でイメージできるようになりたくて、

あとは自分の役割が明確に分かる規模で働きたくて、

ベンチャー企業インターンを探していた。

 

でも、秋になって思ったのが、

「そもそも、なんで僕は都会へ行こうと思っているのか」

 

というのも、僕は都会への苦手意識が高校生のときから強くて、

それは、人混みや、ビル街や、満員電車や、慌ただしい雰囲気や。

そのほとんどが、先入観だったのだけど、

でも、それが嫌で、受験は東京の大学を志望しなかった。

結局、京都へ来てみたら、京都も人が多くて、

「ああ、そうなんだ」と思ったのだけど、それは置いておいて。

 

大学へ行って、大阪や東京へ実際に行くこともあったけど、

やっぱり好きになれなかった。

ひとえに、頭の中を埋め尽くす音と、ビルに覆い尽くされた空の狭さで。

 

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見上げた空が狭いのが、すごく圧迫感に感じる。 

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結局京都も人が多かったのだけれど、建物が低くて鴨川があるから好き。

 

にも関わらず、就職となったら都会へ行くのはなぜか。

いや、都会を狙ってたわけではないけれど、

エントリーする企業がほぼ、東京か大阪にあり、

 

「こんなにも企業は都会に集中しているのか」

 

と驚いた。

そこで、長野へ帰るなら、どんな仕事があるんだろうと思って、

リクナビで、「勤務地:長野」と調べて、また驚いた。

 

出てきた仕事は、

地銀、精密機械、福祉介護、住宅、食品。

あとは、サイトじゃ出てこないけど、公務員か。

 

すごく限られた職種ばかりで、

あとは、都会の企業よりも見せ方が上手じゃなくて、

そのときは、あまりワクワクしなかった。

「長野に戻るなら、この仕事をしなきゃいけないのか」と

あまりよく思わなかった。

もちろん、これも外側から見た偏見で、失礼な話だけれど。

 

でもやっぱり、都会で働くことから、別の選択肢を探したくて、

地方でワクワクしながら働きたいと、

実際に地方で働いている人に会いに行くようになった。

 

いまになって、勘違いをしていたなと思うのは、

3回生の夏にインターンをする企業など、

都会にある企業が集中するのは当たり前で、

実際は都会以外にも選択肢がたくさんあること。

東京の企業は、全体の15%ほどらしい。

 

あとは、長野や地方でも、リクナビに出ていないだけで、

デザイナーやライターや、あるいは会社員でも、

楽しく生きている人はいて、

「地方だからワクワクしない」は、全くの間違いだということ。

やっぱりそれは、自分次第だ。

 

こんな当たり前かもしれないことも、何年か経ってわかった。

 

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最初は、

「地方に興味のある学生」について書こうと思ったのだけれど、

自分の経験を書くだけで長くなってしまったので、今日はここまで。

 

次回は、「『地方』ってなに?」という話をしますので、

乞うご期待。

 

つばさ

日本の限界集落が、世界の最先端

 

大学入学当初は、海外に興味がありました。

自分の知らない世界、ニュースや本で見る異文化。

それを、自分の目で見てみたいと思っていました。

 

それから3年間、興味の赴くままに、財布の許すままに、

自分なりに海外へ足を運びました。

 

それはすごく良い経験で、

思った通り、自分の知らない世界をたくさん見たのだけれど、

いま、海外が一番の関心ごとではなくなりました。

 

自分の経験を踏まえ、その理由を。

 

 

 

これから「日本化」する国々

 

カンボジアへは4回行きました。

カンボジアに小学校を建設するプロジェクトに所属をしていたからです。

 

建設資金を集めるだけでなく、

1ヶ月ほど現地に滞在し、建設作業を手伝いながら、

建てた学校に通う現地の子どもたちと遊び尽くします。

 

正直、初めて海外に、カンボジアに行く前のイメージは、

「貧しい生活で、かわいそう」なのかなと思っていました。

 

けれど、実際に行ってみて、そのイメージは消えました。

確かに物質的には、日本よりは豊かではないのだけれど、

だからと言って、「かわいそう」という気持ちにはならなかったです。

 

 

カンボジアの子どもと、日本の大学生

 

村に暮らす、カンボジアの子どもたち。

 

それは、どこにでもいるかわいくて、憎たらしい子どもたちでした。

ある子は、恥ずかしがって寄ってこないし、

ある子は、いたずらをして気を引こうとしてくるし、

ある子は、甘えておんぶしてと言ってくるし、

ある子は、サッカーしよと誘ってくれる。

 

友だちと歩いて登校して、机に座って勉強して、

休み時間には外で駆け回り、時には喧嘩して泣いてしまう。

どこにでもある楽しい日常が、そこにはありました。

本当に、楽しそうに生きている子たちだなと思いました。

 

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 我先に、おぶってと言ってくる子どもたち。最大4人まで。 

 

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建てた学校で勉強する子どもたち。3年前のことで、書いてて懐かしくなる。 

 

あるとき、子どもたちに、将来の夢を聞いたら、

勢いよく手を上げて教えてくれました。

パイロットや、警察官や、お医者さんや。

「だから私は、頑張って勉強したいのだ」と、教えてくれました。

 

それは、僕には衝撃でした。

方や、経済的、生活的に恵まれていないカンボジアの子どもたち。

一方で、経済的に恵まれている日本の大学生。

 

もちろん、子どもと大学生では比較にならないかもしれないけれど、

それでも、この子たちのように、僕や僕と同世代の日本の若者は、

どれだけ楽しそうに、夢を語れるだろうか。

いや、周りの人は置いといて、自分は今こんなにも楽しく生きてはいない。

そう思いました。

 

やることは授業かバイトかサークル。それも、どれも中途半端。

なにかにワクワクして生きていることはなかったです。

 

そこで考えました。

「経済的には大きな格差のある日本とカンボジア

けれど、そこで暮らしている人たちは、どちらが幸せなんだろう」と。

 

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カンボジアの子どもたちと、こんなに遊んだのは、すごく貴重な体験。

 

「先進課題国」日本が変われば、世界が変わる

 

考えたけれども、結論は出ませんでした。

というよりは、

「どちらが幸せかなんて、一人の主観だけでは決められない」

と考えるよりほか、ありませんでした。

 

けれど、そこでまた思ったのは、

「どちらが幸せかは関係なくても、

これからカンボジアは日本に近づくんじゃないだろうか」と。

 

先進国・日本と、発展途上国カンボジア

時代環境や成長の仕方は違えど、

物質的に豊かになり、便利なサービスが増えることはおそらく間違いありません。

 

けれど、経済成長の結果、日本は幸せか。

僕は、100%そうとは言い切れません。

 

個人の「幸せ」は僕の決めることではないにしても、

社会的課題は、経済成長した後も、まだまだ出てきています。

 

低成長化、デフレ、人口減少、少子高齢化、地方の過疎化、

空き家問題、自殺率の増加、うつ病の増加、伝統の衰退。。

 

あげればキリはなく、けれどこれらもまた、経済成長の産物とも言えます。

であれば、これからカンボジアや他の発展途上国でも、

遅かれ早かれ、同じ問題に直面することになります。

 

では、そうなったときに、日本がこれらを解決していなかったら。

それは、みんなが同じたくさんの課題を抱え、不幸になってしまうのではないか。

それなら、一番早く直面している「課題先進国」日本が、

経済成長一辺倒の生き方から、もっと新しい生き方をつくりだしていけば、

これから日本を追う国々も、幸せに生きていけるんじゃないか。

そう思います。

 

もちろん、カンボジアがすべて日本のようになるとは思わないけれど、

出てくる課題は、似たものが多いのではないのでしょうか。

 

その意味で、日本の田舎は、

先に挙げた日本の課題が、一番近くにある場所であり、

日本の限界集落は、日本の縮図、そして世界の縮図だとも考えられます。

 

経済成長や効率優先の生き方から、

もっと人が幸せになれる生き方を、世界へ提案する。

 

 

僕が、海外から日本の集落に興味を持つのはこんな理由で、

世界という大きなことを常に思ってるわけでもないけれど、

何より自分のためにも、新しい生き方を探していきたいなと。

 

 

つばさ

「ありのままでいい」なんて、簡単に言わないで

「ありのままでいいよ」

 

この言葉を、多くの人が聞いたことがあるのではないだろうか。

アナ雪で、すごく広まったとも思う。

 

悩んでいる人に対して、「ありのままのあなたが素敵」と声を掛ける。

変わりたいけど、変われない。

いくら変わろうと努力しても、進めない。

それを繰り返して、疲れてしまった人に対して、

「頑張っているだけであなたは素晴らしい」と言う。

 

ひとを勇気づける、優しい言葉だと思う一方で、

僕は、違和感を覚えることもある。

今日は、「ありのまま」の話について。

 

 

変わりたいから、努力してるんだ

 

悩んでいるひと。

葛藤しているひと。

行き詰まっているひと。

そういうひとの気持ちは、人並みにはわかると思ってる。

 

僕は、中学、高校の頃、人付き合いが苦手だった。

人となにを話したらいいかわからないし、

人にどうやって声を掛けたらいいかわからない。

仲間に入れてというのが怖くて、

いっしょにやろうと誘うのが苦手だった。

 

そんな僕でも、高校3年の夏、

「もっと人と関わらないとダメだ」と気づいたことがあり、

それから、それまでの自分を変えてきた。

 

実際、それは大変で、うまくいかないこともあるし、

すごくつらくなったこともある。

いまでも悩み事はいつも人間関係で、

全部投げ出したくなるときもある。

 

それでも、僕は変わりたかった。

弱い自分に勝ちたかった。

なんとかやり遂げたかった。

そう思って、努力していた。

 

だからこそ、僕は「ありのまま」なんかでいたくなかった。

だって、「ありのまま」の自分は好きじゃないから、

変わりたいと思っているのに。

「ありのままでいい」と言われると、

「変わりたい」っていう感情も、

否定されたような気がする。

勝てない自分を慰められた気がする。

そんな同情も、優しさも、いまは要らないのに。

いま、欲しいのは、変わるための方法だけなのに。

 

わかってる、矛盾していることぐらい。

「変わりたい」って感情も、すべて含めて「ありのまま」。

「ありのまま」は変わることを否定する言葉じゃない。

もっと気負わずに、悩まずに、生きていくことを後押しする言葉だ。

そのことも全部、わかってる。でも...。

 

そんなふたつの気持ちが、どうしても出てきてしまう。

言いたいこともわかるけれど、納得できることでもない。

そんな葛藤。

 

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僕は、あのときから、少しでも変われているのだろうか。

 

だからこそ、「ありのままでいい」っていう言葉は、

悩んでる人に、ちゃんと向き合った人しか使っちゃいけなくて、

「ありのまま」のその人を、少しでも知らない人なんかが、

使っちゃいけない言葉なのかもしれない。

「ありのまま」を変えたくて頑張ってるのに、

「変えられない自分」を慰められた気分になる。

そんな無責任な優しさはない。

 

 

そんなふうに、思うこともあるのです。

みなさんは、どう思いますか。

 

つばさ