「自然」と「人工」の境界線
「自然」ってなんだろう。
農業や林業に興味を持ち始めて、ずっと気になっていることでした。
どちらも自然と近い場所で暮らすと言うけれど、
実際に「自然」が何を指すのかわからない。
イメージでは、森や、田んぼや、渓流だけれど、
人工林もあるし、田んぼは人がつくったものだし、
護岸工事されていない川の方が珍しい。
林業は、木を伐ることになる。それは果たして、「自然」なのか。
農業は、土を掘り返し、人間に都合のいい作物を植える。
じゃあ、田んぼは、畑は、「自然」なのか。
それは、見方によっては自然破壊だ。
実際に、「農業こそ、人類が行った最初の環境破壊だ」
という意見もある。
一方で、人間自体も自然にできたものだから、
人間がすること全ては「自然」だ、という意見もある。
どちらも、「そうだなぁ」と思いながら、
でも、しっくりこない感じがあったけれど、やっと納得できるものに出会った。
それを紹介します。
杉だけ生える林は、「自然」か。
日本の原風景は、戦後に区画整備された田んぼ。純粋な「自然」ではない気がする。
「自然」とは。「人工」とは。
感動するほど納得したのは、この本だ。
人工とは、人間の意識がつくり出したものをいう。都会には、人間のつくらなかったものは置かれていない。樹木ですら都会では人間が「考えて」植える。
(中略)
他方、人間の体は自然に属している。身体は意識的につくったものではないからである。
「自然」と「人工」の違いは、
人間の意識がつくったものか、そうでないかで決まる。
そう考えると、世界が違って見える。
人の植えた森は、やはり人工だ。田んぼも人工だろう。
都会の街路樹も、いかに植物といえど、人工になる。
だけれども、街路樹の下の地面から生える草は、自然である。
コンクリートの隙間から芽吹く花も、自然だ。
逆に、人の身体は、人工のようであって人工ではない。
特に呼吸や消化器官などは、人の意識の及ばないところにある。
それは、自然の営みである。
すると、次に気づくことは、
「自然」と「人工」は共存しているということ。
都会にも、ふつふつと湧き起こる自然はあり、
自分の中にさえ、自然の存在が感じられる。
あるいは、田んぼという人工物には、カエルやタニシが棲みつき、
新たな生態系が生まれる。
まさに、「自然」と「人工」が混ざり合った環境である。
世界は、「自然」と「人工」が、
時間的空間的に、混ざり合い、濃淡が変わり、流動し続ける。
決して明確に分けて論ずることのできるものではない。
「人工」から湧き起こる、「自然」。
二項対立から、同一化へ。支配から、共生へ。
そもそも、「自然(シゼン)」という言葉は、明治時代までなかったという。
「nature」の訳語から、「自然」という言葉が生まれたのだ。
それまでは、日本には「自然(ジネン)」という考え方があった。
「自然(ジネン)」とは、その通り「自ずから然らしむ」こと。
まさに、「人の意識がつくりださないもの」である。
つまり、「自然(シゼン)」とは、西洋的な考え方であり、
人間と自然、この両者を分け、対立させる視点である。
それでいて、人間が自然を支配する方向へと持っていく思考である。
一方で「自然(ジネン)」とは、古来の日本的な考え方で、
原生林や、野生の動植物など、人間と対立する「自然」ではなく、
人間もその一部となるような森羅万象のことをいう。
そう考えると、いかに日常で使う「自然」や、
特に「自然保護」などと言うときのものが、
人間とは別の場所にあるもののような感覚で使っている自分に気付く。
そこで既に、乖離が生じているのである。
「自然(シゼン)」という言葉の納得し難さはここにあり、
本来、頭のなかから、人間と自然という分離もなく、
人間もそのなかの一部だったのだと思えば、あるべき姿が見えてくるなと思う。
すなわち、全ては「自然(ジネン)」の循環のなかで、
その資源を使い過ぎることなく、必要な分だけ使い、
使い終わったら、また循環のなかへと還元していく。
そんな人間の生そのものが、「自然(ジネン)」に含まれる状態。
まだ明確なものは見えないけれど、
一次産業も、自分の暮らしも、そこに近づけていきたいなと。
そう思いました。
生きることそのものが、「自然(ジネン)」のなかにある暮らしを。
納得することの多い本でした。
つばさ