つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

「消費」しても、消えない

山口県祝島という離島へ行ってきました。

港からフェリーで1時間半。

人口400人ほどが島の一角に住み、

海藻茂るきれいな海と、びわの多い森に囲まれる。

 

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透き通る海。左上の茶色いのは、島をぐるりと囲むひじき。

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そこかしこに、びわのなる木。

 

45日。別に遊んでたわけじゃなく、

島で生活をしている方のお手伝いを。

田んぼの草取りやら、ひじきの天日干しやら、生ゴミの回収やら。

えんやこら、えんやこら。

 

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田んぼの草とり。こういう単調作業は、好き。

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ひじきの天日干し。島の資源を活用するとは、このことだ。 

 

目の前にある循環

海なしの長野県に生まれ、島に来たのは3回目くらい。

そこでまがいなりにも暮らしてみたのは初めて。

初めての経験で、「島」という環境の素晴らしさを知った。

 

「島」は外界から隔離されている。

だから、環境的に独立しているように感じる。

すると、自分の暮らしと周りの環境が、

どのように関わり合っているかが目の前に見える。

 

島で育てた野菜を食べる。

海に茂るひじきを食べる。

生ゴミは、島中で集められ、牛と豚の食糧となる。

それらは、牛と豚の生命活動によって、糞になり、

糞は、土中の微生物によって分解され、畑へと戻る。

 

こうした物質の循環が見える。

また、水の循環も見える。

森が貯めた地下水で、生活をする。

生活で使った水は、海に流れる。

海から水蒸気が上がり、雨となって島へと降り注ぐ。

 

中学校の理科で習ったような、簡単なこと。

誰でも知っている、いのちの循環。自然の循環。

それを、目の前で、自分の頭と体で感じられる場所だった。

 

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島民400人分の生ゴミ/日。すごい量。生ゴミ回収を10年前からやっているのだそうだ。

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生ゴミは、豚と牛の食糧となり、数日後には糞になる。人が食べられないものから栄養を取り、糞に変える。これはよく考えると、すごいことだ。

 

「消費」しても、消えない

そこで感じたこと。

 

「モノ」は簡単になくならないのだということ。

 

いまの時代は、大量生産・大量消費だという。

「消費」とは、「費やして、消す」と書く。

その通り、日々の意識のなかで、使ったものは消える感覚でいた。

ゴミ箱のなかに捨てれば、もう自分とは関わりがなくなる。

それは、燃やされて、処理されて、消えるものだと。

 

そんなはずはない。

「消費」しても、消えない。

いくら食べても、排泄物は残る。

いくら燃やしても、灰や二酸化炭素は残る。

そして、それらは、70億人がすれば果てしなく膨大な量になる。

その量を消すには時間がかかる。

だからこそ、埋め立てやら、大気や海へ捨てるやらしている。

結局、僕らが「消費」しているものは、消えていないのだ。

 

ここで「消える」という表現をしたのは、便宜上で、

正確には、土や水のなかの微生物の働きで、分解されている。

この分解を上回る速度で消費・廃棄をすれば、分解しきれないものは残る。

そうなれば、なくならないモノが周りにあふれていくのは、当然だろう。

 

「大量生産・大量消費」の後には、よく「大量廃棄」が付け加えられる。

そうだ、大量廃棄だ。

大量消費・大量廃棄。

ここに、使ったものが消える仕組みがない。

大量生産したならば、「大量分解」がなければ、環境は維持されない。

 

だからこそ、環境問題を考えるときは、

人間の経済活動や生活水準から考えるのではなく、

自然界での分解量から考えなければ、解決できるものではない。

 

ゴミ箱から、トイレから、微生物から、地球を考える。

祝島は、世界の縮図だ。

その意味で、この小さな島の、目に見えない世界から、大きな宇宙が見えるのだ。

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うんこから見える宇宙。

 

言葉で言えば、簡単なことを、

島で目の当たりにして、初めて自分の言葉になった。

改めて現場で学ぶ大切さを感じました。

 

 

祝島で出会った方に、惚れました。

恋愛ではなく、人間として。ですよ。

夏にまた行こうと思います。

興味ある方は、いっしょに行きましょう。

みんなに来てほしい場所です。

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つばさ

自分らしく生きずになにかを残したとしても、僕は満足できないと思う

前回、「自分らしく生きる覚悟」について書きました(↓)

tsubasakato.hatenablog.com

 

 

今回は、その続き。

 

いつかは死ぬのに、なぜ生きるのか。

自分が死んでも、世界は変わらずに続くだろうに。

なぜこんなにも頑張るのか。

 

それは、多くのひとは、何かを残したいからだと思う。

というか、僕がそうだ。

 

自分が死んでも、自分を思ってくれる人がほしい。

自分という存在に意味があったと思いたい。

世界に影響を与えたと思いたい。

そんなことも思う。

 

だから、いままでは、「自分の存在証明」みたいな欲求が強かった。

有名になりたかったし、すごいねと言われたかった。

けれど、いまはそれよりも強い欲求が出てきた。

 

それは、「自分らしく生きたい」ということ。

 

 

胸を張って、名を残す 

何かを残した場合、それによって自分の名前が、自分が死んだ後も語り継がれる。

それはいいことのように思えるけど、

もし、それが自分のしたいことではなくて、結果が残っていたら。名前が残っていたら。

それは胸を張って、誇れるようなものだろうか。

 

おそらくそんなことは絶対なくて、

総理大臣「加藤翼」も、名医「加藤翼」も、起業家「加藤翼」も、

僕はいまはなりたいと思えない。

だからこそ僕は、いま心が思うことに、心が感じることに純粋に生きていきたいと思う。

 

名前を残せないことは、残念なことだ。

ただ、自分らしくない名前が残ることは、それと同じくらい残念なことだと感じた。

 

だから、まず、自分らしく生きること。

それは、自分の納得する選択をして、自分の気持ちに嘘をつかずに生きること。

自分の好きなものを好きと言うこと。

それが、いまの僕の目標です。

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夢は大きく。まだ諦めてない、うん。

 

つばさ

自分らしく生きる覚悟

「覚悟を持て」

僕と同世代のみんな。よく言われないでしょうか。

 

僕も、よく言われます。

この前、京都の久多という、いわゆる「限界集落」で、修行してきました。

ここで農業、狩猟、民宿など、いろいろやられている方のもとへ。

宿泊 - 蕎麦打ち おくで

 

そこでも言われました。

いろんな選択肢があるなかで「覚悟」を持つことは難しい気がしますが、

僕なりの「覚悟の持ち方」の解釈をしてみました。

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農家民宿はこんなところ。四季の移ろいが感じられる。

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久多での一コマ。トマトの支柱立て。 

 

いろいろやりたい。けど、一つ決めることはできなかった

4月は、林業をやろうと思っていました。

けれど、修行に行った6月は、自分は林業だけしたいのかと迷い始めていました。

 

そもそも、木の需要自体が減っている現在、木材生産のほうだけやってても意味がない。

だから、木も育てたいし、木炭づくりのようなモノづくりもしてみたい。

他にも、もっといろいろやりたいことがある。

野菜つくってみたいし、狩猟もしてみたい。

自分の家も建ててみたい。エネルギーの自給もしたいな。

 

そんなことばかり思っていて、なにも手につかなかった。

 

そこで、主人の奥出さんに言われた。

「まず一つ、自分のブレない軸、土台をつくらなあかん。

そこからや、いろいろ手を出して身についてくるのは」

 

つまりは、いろいろやりたいことがあるなかで、「ひとつ、これをやる」と覚悟を決める。

そこに3年なり5年なり、自分でできるようになるまで続ける。それができたら、また次へ手を出す。

そういうこと。

 

最初、僕はこれに納得できなかった。

正直、ひと昔前の考え方、一つの会社にずっといるのが当たり前だった時代の考えだと思った。

 

 

なぜ、こんなにも「覚悟」というのか。

「覚悟」がなければ、手を出していけないのか。

もっと自由に、やりたいことをやってもいいのではないか。

そう感じていた。

 

覚悟の前の、覚悟

だが、その後、思った。

 

「僕は、これをやる!と覚悟を決める前に、自分の信じる道をいく覚悟を持つべきじゃないか」

 

結局、「それってこうじゃないの」って思うことがあるなら、そっちにいけばいいのだ。

自分の感覚を持てていないこと。それ自体が一番の問題だと。

 

「ひとつ、これをやる!」と決めるのも良い。

「いろいろしたいじゃん」と決めるのも良い。

ただ、そこで自分の選択に責任を持てるかが問題だ。

 

いろいろ言ってくる人はいる。

助けを求めたら、アドバイスをくれる人はいる。

けれど、その人たちは、良くも悪くも自分の人生に責任をとってくれない。

アドバイスに従って失敗したとして、誰も恨むことはできないのだ。

 

「覚悟を持て」と言われて、迷うひとへ。

おそらく、それは、「ひとつに絞る覚悟」ではない。

少なくとも、まずはそれではない。

そう言われて迷っている人こそ、「自分らしく生きる覚悟」がまだできていないのだと思う。 

 

これに気づいてから、

僕はもっともっと、自分で考え、自分で決めて、自分で責任をとる。

それが必要だなと、反省しました。

精進します。

ちなみにいまは、まずは林業をやってみようと思っています。

自分で考えた結果です。

 

あと、否定的に書かれた印象を与えたかもしれませんが、

ここの民宿のご主人、奥出さんはすごい方です。

優しく、厳しく、信念を持ち、ひとりひとりに向き合ってくださる方です。

15年かけて「田舎で暮らす」ことを実践されてきた方です。

「田舎で暮らす」ことの大変さを、その体験をもって教えてくださる方です。

 

よければ、そこで学べるプログラムが夏にあります。

興味があれば、行ってみてください。僕も1年半前に行き、生き方が変わりました。

もっと多くの人に行ってほしい場所、会ってほしい人、体験してほしいものがあります。

mura-ryugaku.com

 

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ここにいると、時間の流れが変わります。 

 

つばさ

tsubasakato.blog@gmail.com