つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

まず僕らは「理想のコミュニティ」を、捨てる必要があるかもしれない

最近、「人との繋がり」とか、

「コミュニティ」とかいう言葉を使わないようにしています。

 

人がどんどん、個人に、孤独になっていく一方で、

「人との繋がりが大事」だとか、

「コミュニティを取り戻そう」とか、

そういう方向も生まれてきているのだと思います。

 

けれど、僕はいま、「繋がり」という言葉が、

綺麗事に聞こえてきてしまいました。

 

「繋がり」があったほうが、楽しい。

「繋がり」があると、安心。

 

それはそうなんだけど、

自分の楽しさ、自分の安心のことにばかり集中してて、

「繋がり」の先の相手が見えない気がしてて。

 

何より、僕のなかで、

理想の「コミュニティ」というものが、わからなくなってきたのです。

みんながみんな、嬉しいコミュニティとは、どんなものか。

 

誰か、自分なりの答えを持つひとは、教えてください。

 

 

「自分」しか見てないコミュニティ論

 

みんな仲良く楽しくて、

お互い何でも言い合えて、

お互いがお互いのことを認め合ってる。

閉鎖的じゃなくて、

いつでも誰でも出入り自由、

抜けたいときに抜けれるし、

入りたいときに入れる。

あたたかい「繋がり」があるけど、

その「繋がり」が足かせになることはない。

 

 

理想のコミュニティを議論するときに、

だいたい「良い」とされるコミュニティを並べてみました。

 

これを聞いてどう思いますか。

確かに、理想的なコミュニティだとは思います。

けれど、本当に自分勝手だなとも思います。

 

このコミュニティはほとんど、「自分」から見た理想です。

なんでも言いたいことは言いたい。

認めてくれる人がほしい。

抜けたいときに、後腐れなく抜けたい。

入りたいときに、不安な思いをせずに入りたい。

 

それはそうだ。

自分から見たら、その方がいいに決まってます。

 

けれど、そうされる「相手」側からしたらどうでしょうか。

なんでも言いたいことを言われる。

抜けたいときに、勝手に抜けられる。

入りたい人がいたら、それが誰でも迎えいれなきゃいけない。

 

ちょっと誇張してるかもしれませんが、

「相手」からしたら、こういう捉え方をされることもあると思います。

 

みんながみんな、言いたいことを言われたいのでしょうか。

誰かが急に抜けたときに、それを良く思わないひとは本当にいないのでしょうか。

知らない人が入ってきたときに、それを怖いと思うひとはいないのでしょうか。

 

僕の思う限り、そんなことはないです。

というより、僕が誰かにそうされたら、

どちらかというと負の感情を抱いてしまうのです。

 

僕は、

誰にでも言いたいことを言われたいと思うほどできた人間ではないし、

自分勝手に抜けられたら、理由の如何によるけれど、「はぁ?」と思う人間だし、

知らない人が入ってきたら、少なからず身構える人間です。

 

誰かにとって、理想的なコミュニティは、

誰かにとって、理想的なコミュニティではないのかもしれない。

 

僕が、「人との繋がり」や「コミュニティ」という言葉を発する時、聞く時、

何か綺麗事だと感じてしまうのは、

その言葉を使った人が、「自分にとって理想的なコミュニティ」しか

考えていないからなのかもしれない。

 

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自分の「理想のコミュニティ」は、相手の「理想」ではないかもしれない。

 

ある意味、僕も含めて、

やはり自分にとって都合の良い「繋がり」や

「コミュニティ」しか求めていないくて、

まあ、それが「理想」ではあるのだから、

求めるのも仕方ないかもしれないけれど、

やっぱり、「コミュニティ」が他者の存在がないと成り立たない以上、

「自分から出発する理想のコミュニティ」

「相手から出発する理想のコミュニティ」の、

接続面を探り合わなければ、何も進まないのだと思ったところです。

 

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コミュニティは、違うひと達の集まり。理想のコミュニティは、この中心にある気もする。

 

あなたにとって、理想のコミュニティはどんなものですか。

みんなにとって、理想のコミュニティはどんなものだと思いますか。

 

そんなことを聞いてみたいです。

 

つばさ

僕の憧れるひと:山地酪農家・中洞正さん

経済合理性よりも、大切なことがある。

そう、信じています。

 

「お金がなきゃ、続かない」

「守るものがないから、そんなことが言える」

「夢だけじゃ食っていけない」

 

そんなことは、知っている。

二兎を追うことは、一兎を追うよりも難しい。

もう、言われなくても、当たり前だ。

当たり前のことを、何度も言わなくてもいいじゃないか。

 

もっと夢を語ろう。

もっと楽しい話をしよう。

そこにどんなに困難なことがあっても。

分かち合えば、助け合える。

仲間になれば、応援し合える。

 

そんなふうに思わせてくれた言葉があります。

 

 

「夢を追わなきゃ、青春じゃないだろう!」

 

 

これを聞いたのは、岩手の酪農家の人から。

この方の人生を知ってほしくて、この記事を書きます。

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いまでも現場に出続ける、中洞(なかほら)正さん。

 

青臭くても、自分の信じた夢を追い続ける。

その姿に、心を打たれます。

 

酪農家の方なので、唐突ですが、「牛乳」の話から。

「牛乳」の裏側、みなさん知ってますか?

僕も半年前まで、まったく知りませんでした。

読み始めた方、ぜひ最後まで。

 

目次

 

 

酪農に押し寄せた、近代化の波 

 

戦後、酪農には大きな波が押し寄せました。

近代化、そして効率化です。

一頭あたりの乳量を多くすることを目的に、

今日多くの乳牛は牛舎で密飼い、輸入の濃厚飼料を食べています。

その方がコストが下がり、生産性があがるのです。

 

特に、牛の牛舎飼いが進んだのは1987年。

農協に出荷する生乳の取引基準が「乳脂肪率3.5%以上」とされ、

それ以下の生乳は半値で買取とされたことが大きな要因です。

 

これが何を意味するか。

自然放牧の牛は、春から夏にかけて青草を多く食べる頃、

乳脂肪率が3.5%を下回ることもあり、安定しません。

では、常に3.5%を超えるためには?

それは高カロリーの輸入濃厚飼料を与えていれば可能です。

つまり、この規定は実質、半強制的な牛舎飼い。

日本の酪農は放牧を捨てざるを得なかったのです。

 

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市販の牛乳には、「3.6」「3.7」など、乳脂肪率が書かれています。 

 

幸せな牛から、おいしい牛乳

 

この大波の中で、24時間365日の自然放牧を実現したのが、

岩手県岩泉町・「なかほら牧場」中洞正さん。

標高700mを超える広大な山地に、約90頭の牛を放牧しています。

餌は、基本的に自生する野シバ。

この「山地酪農」という方法で、牛を飼っています。

nakahora-bokujou.jp

 

 

効率ではなく、自然の摂理を一番に。

その中で人間は、循環のサイクルを手助けする存在になるのだと言います。

そのため、交配、受精、分娩も牛まかせ。

年を重ねて乳量の減った牛も飼い続け、20年近く生きた牛もいます。

 

一方で近代酪農では人工授精を繰り返し、乳量の減った牛は肉牛として処分。

密飼いで病気にもかかりやすく、平均寿命は6~7年です。

「牛がしあわせだからこそ、おいしい牛乳ができる」と中洞さんは語ります。

 

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「なかほら牧場」での放牧の様子。牛乳のパッケージにあるような放牧はもうほとんどないのだそう。 

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標高約700m。豪雪の北上山系でも、たくましく生きる牛たち。

 

一本1000円の牛乳を売る

 

中洞さんの飼い方は、経済合理性からは逸脱します。

乳量はとても少なく、通常の約1/5だそうです。

 

けれど、それは牛や自然という生き物に、

真正面から向き合い、その幸せを第一に考えるからこそ。

 

その結果、できる牛乳は一本1000円というもの。

しかも、先に述べたように、この牛乳は農協には出荷できません。

乳脂肪率が安定しないためです。

 

だからこそ、牛舎飼いを進める行政と袂をわかち、

中洞さんは、牛乳の生産・加工・販売を一貫して行う牧場づくりを、

まさにゼロから創り上げてきました。

その期間、40年以上。

気の遠くなるような夢を、追い続け、実現してきたのです。

 

この理念や生き様に惹かれ、

「なかほら牧場」には、毎年200人以上の研修生が訪れます。

若者も多く訪れます。

 

僕も、去年ここを訪れ、ここの場所、ここのひとに魅了されました。

今年の夏もまた訪れようと思っています。

 

 

ここに書いたのは、ごくごく一部で、

もっと深い牛乳の話が、

もっと壮絶な中洞さんの人生があります。

興味を持ってくれた方、本かHPで見てみてください。

あるいは、いっしょに現地へいきましょう。

目の前に広がる景色に、成し遂げてきたことの大きさに、呆然とします。

 

山地酪農家 中洞正の生きる力 (ソリストの思考術)

 

 

僕の憧れのひと、憧れの生き方です。

僕も、ずっと青春でいられるように。

 

つばさ

最終目標は、「むらづくり」

僕の最終目標は、「むらづくり」だ。

そう、最近思いました。

 

僕の志が、少しだけはっきりしました。

今日は、僕がいま描ける、未来像を。

 

-目次 

 

 

林業家」という職を、まずは身につける

 

大学卒業後は、「林業家」になろうと思っています。

 

なぜか。

一つは、「現場に行きたいから」

圧倒的に、これが大きいです。

去年、東北の農業漁業の現場を回りました。

そこで、生産者の話を聞き続けました。

その衝撃は、机上では得られませんでした。

 

頭で理解していること。

身体で実感していること。

これは根本的に違うと思います。

それは、「その学びに行動が伴うか」の違いです。

 

頭ですべて理解していても、行動には現れないこと。

頭ですべてを理解していなくても、行動に現れること。

 

どちらが大事か。

僕は後者だと思います。

 

 

もう一つは、「生態系を感じながら生きたいから」

東北で、初めて一次産業の世界に触れ、その世界の大切さを感じました。

 

僕の命を生かす、食べ物、水、空気、それらすべては、

僕の手の届かない、とっても小さく、でもとっても広い世界で、

ぐるぐると循環しているのだと。

その世界があるからこそ、

僕、そして社会というものは、生きていられる。

その世界と共生する営みが、「農」や「漁」の世界だと感じました。

 

一方で、そんな当たり前のことを、

意識せずに生きていける「街」での生活を、僕は怖いなと感じました。

既に何かに支えられて生きていること。

その感覚がこれほど薄れた社会は、近くに成り立たなくなるのだろうと思います。

 

では、農業や漁業ではなく、なぜ林業か。

それは、農業も漁業も、その根本がなければ成り立たないと思うからです。

根本とは、豊かな土であり、海であり、山であり、川です。

それを創り出す源泉としての、森。

そこに興味があって、僕は林業をしたいと思うのです。

 

林業、その先にあるもの

 

ただ、自分のしたいことは、林業だけではありません。

自分の食べるものを、自分でつくること。

自分の住む家を、自分でつくること。

自分の使うエネルギーを、自分でつくること。

 

そんなことをやってみたいと思います。

もっと大きなことを言ってしまうと、

暮らしや地域に必要な、衣・食・住・教育・医療・エネルギー。

それをつくりたいと思っています。

 

それは、

いまの時代がすべてお金によって清算され、外部に依存する状態への危機感、

また一方では、ある程度完成した社会で、

消費するだけでなく、自分で自分の暮らしをつくる欲望。

そんなものからきているのかもしれません。

 

また、この自給自足的な暮らしを、本当に自給自足的にやるつもりはありません。

自分の手に職を持った人たちが集まり、お互いに補い合う。

 そのなかで、酪農をする人がいてもいいし、

果樹栽培をする人がいてもいい。

あるいは、家具づくりをする人がいてもいいし、

教育をする人がいてもいいかもしれない。

僕は、そのなかで、林業をしよう。

 

そんな新しい「むらづくり」

ひとと他の生き物が共生する「生態系づくり」ができればと思います。

だからこそ、僕の最終目標は「むらづくり」です。

 

むろん、ここまでかかるのに、どれほど時間がかかるかわからないけれど、

これからを生きる、ひとつの志を、いまから描きたいと思います。 

 

僕は、なんのために生きるのか

 

この志は、

僕がひとりだけでやっても楽しくないのとともに、

いっしょにやらないと寂しい気持ちが強いです。

 

「ひとを幸せにするのは、ひと」

 

これは、僕の信念です。 

お金は決して、人を幸せにするものではないのだと思います。

 

だからこそ、お金が重視される世の中で、

「自分が本当に大切なものだと思うものを、大切にしながら生きていきたい」

その方法を模索し続けたいと思います。

 

興味があったら、いっしょにつくりましょう。

 

ブログ「つばさの軌跡」の意義

 

このブログは、模索を続ける過程を綴るものであると同時に、

「仲間づくり」だと考えています。

これから、新しいむらをつくる仲間を求めて、

僕は、僕の生き方、暮らし方を、発信しようと思います。

 

その意味で、ブログのテーマは、「誰かと心を通わせること」

好きなものを好きと言い、共感するものを応援する。

そんな場をつくっていきたいと思います。

 

 

つばさ