つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

私は生きていけない 〜初の船上日誌〜

 2016年4月某日、山形県鼠ヶ関沖の船に私はいた。

長野県で生まれ育った私は漁船など乗ったことはなく、人生初の経験であった。

深夜出航した船は波に揺れながら暗闇を進む。

海の上にいる。

その感覚に深い感慨を覚えていたが、

30分と経たずにそんなものは暗闇の彼方へ消し飛んだ。

 

人生初の本気の船酔いは想像の遥か上をいった。

胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。

それで吐き気が消えればいいのだが、一向に収まる気配がない。

吐くものがないまま、暗闇に向かって私は嗚咽を繰り返した。

夜が明けると吐き気は次第に落ち着いたが、胸の気持ち悪さは残り続ける。

寝転がっていればなんとかなるが、立ち上がることができなかった。

太陽が燦々と照りつけ、ウミネコの糞の雨が降り注ぐなか、

私は心を無にし続けるほかなかった。

その横では乗せてくれた漁師たちが紅エビを繰り返し獲っていた。

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船の上空を、ウミネコは絶え間なく飛び交う。クゥークゥーと、鳴く声は響く。

 

私が再び地に足を着けたのは昼過ぎ。

半日以上の乗船時間は、乗っていたときは永遠にも感じられたものだが、

降りてみるとほとんど何も覚えていなかった。

真っ黒に焼けた顔と肩についたウミネコの糞だけが、

私が船に乗っていたことを証明してくれた。

 

 

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 2016年4月より私は『東北食べる通信』の発行元、

NPO法人東北開墾で一年間インターン生として働いていた。

上記インターンシップが始まった直後、初めての船上取材での事である。

この他に多くの生産現場に足を運び、生産者の話を伺う貴重な機会に恵まれた。

それまで私は野菜がどうやってできるのか、魚はどうやって獲っているのか、

そういったことを知る機会もなく、また知ろうともしなかった。

 

一方で学業は自分なりに頑張り、京都大学に入学した。

しかしそこで形成されてきた「自分は優秀だ」という恥知らずな自意識は、

(言葉では謙遜しながらも内心は喜ぶ自分の感情は否定できない器の小さい人間だ)

土や海や農家や漁師に完膚なきまで叩きのめされることになる。

海の上に放り出され、何もできない私は自分の無力さを痛いほど感じた。

そのつらさは耐えられるものではなく、吐きながら泣き叫んだ。

正直、本当に少し泣いていた。

 

この経験を経て、私は農家や漁師、自然を相手にしながら生活する人々に、

そして土や海(特に海だ)に、心から尊敬の念を抱くようになる。

京都大学だと伝えて相手から「すごいね」と言われると、

前まではまんざらでもなく思っていたが(やはり器が小さい)、

それ以来本気で否定したくなった。

私は海に出て、魚一匹獲ることもできないのだ。

そして実感した。

いま農家や漁師の人々がいなくなったら、私は生きていけないのだ。

 

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開始30分でこれ。そしてこのまま5時間。

 

でも、この経験が、いまの僕のひとつの原点とも言えるものです。 

 

つばさ

「暮らし」に向き合う一年を。

2018年、年明け。

とにかく無事に、新年を迎えられたことに感謝です。

 

2018年に向けて。

「暮らし」というものを、丁寧に、深く、実践してみたいと思っています。

 

どういうことかっていうと。

「暮らし」は「暗し」と聞いたことがあります。

日が暮れるという表現から、語源は同じだろうなと思います。

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だから「暮らし」というものは、明るいものじゃないんだろうと。

わかりやすいのは、「ハレとケ」という表現かなと思っていて、

なんの変哲もない、普段の日常を「ケ」の日と呼びます。

一方で、行事やお祭りのある日を「ハレ」の日と呼びます。

 

当たり前といえば当たり前なのですが、

世間では「ハレ」のものしか注目されません。

ニュースになるのは、何かの行事ごとばかり。

話のタネになるのも、非日常的なできごと。

意味とはちょっとずれるけれど、

社会に出て求められるもの、注目されるものも、業績や結果がほとんど。

その過程でどれだけ努力しても、あまり目に付きません。

特に、競争社会のなかでは。

結果が「ハレ」、過程が「ケ」のように、僕は連想してます。

 

けれど、実際に世の中は

膨大な「ケ」と一部の「ハレ」によって構成されているように思います。

つまり、普段と変わらない、たくさんの「暮らし」と、ごくたまに起こる「事件」。

 

しかし「事件」は、なんの前触れもなく起きるものではありません。

それまでの日々の「暮らし」、それがすべて集積されて「事件」となります。

何かが起こる原因が、「暮らし」の中に眠っているのです。

 

「歴史は起こったことの集積だ」と聞きました。

すべて起きたことの羅列であり、歴史には起きたことを書き留めていきます。

しかし、これらにはすべて理由があって、

その理由がどこにあるかといえば、特に注目もされない日常のなかです。

 

いま起きている社会問題のなかで、

国だけが悪い、行政だけが悪いなんてものは一つもないのではと思っていて、

僕らが電気をたくさん使うから、原発はまた稼働するし、

僕らがゴミをたくさん出すから、地球温暖化は進むし、

僕らがコンビニで弁当を買うから、食糧廃棄はなくならない。

もちろん、僕らがすべての要因ではなくて、あくまで一因なのだけれど、

その一因であることがとっても重要だ。

 

だからこそ、僕は、

「おかしい」と思う社会の仕組みを、自分が支えてしまうことのないように

「暮らし」の所作、そのひとつひとつを改めて見つめ直し、

ゆっくり自分の納得できるものにしていきながら、

丁寧に紡いでいきたいなと思う、元旦の昼下がりです。

「おかしい」と思いながらも、すぐには変えられないのが「暮らし」だと思うから。

 

 

「暮らし」は「暗し」と書きました。

先に書いたように、

「暮らし」とは、端から見て華々しいものではないように思えます。

だからこそ、日記やらダイエットやら、

日常のうちに、何かを意識して継続することは難しいものです。

7つの習慣』という、自己啓発系の有名な本があります。

内容も好きだったけれど、内容以上に感じたのは、

「やっぱり、継続することなんだな」ということ。

自分自身を変えるのも、日々実践することでしか成し得ないのだ、と。

それを言い換えて、「習慣」という言葉を使っているのだなぁ、と。

ふとした瞬間に、流されてしまう「暮らしの力」。

負けることも多いですが、ゆっくり向き合っていきたいです。

 

また、「暗し」というのは、一面的な見方でしかないとも思っていて、

ひとつひとつ、丁寧に向き合っていくことで、

端から見れば、なんの刺激もない日常のなかに、

競争のなかでは見出せない、鮮やかで充溢したものを発見できるのでは、

と妄想しています。

暗々とした「暮らし」ではなく、生き生きと輝く「暮らし」を。

 

 

そんな感じで、2018年を踏み出そうと思います。

いままで、たくさん行動し続けてきましたが、所詮は学生のまま。

初めて、学生という身分がなくなり、

自分で暮らしをつくっていくことに、

不安と期待がせめぎ合い、混ざり合う状態ですが、

自分らしく、生きていきたいです。

 

1月は、後回しにし続けた卒論。

2月・3月は、最後の春休みに、やりたいことを詰め込んで。

4月からは、鳥取県智頭町に移住し、林業に従事します。

 

長くなりましたが、

今年も、みなさん、よろしくお願いいたします。

 

つばさ

結局、助けてくれるのは。

 

どうしようもなく、ふわふわする日々。

 

ふわふわってのは、

浮遊感で、

地に足がついていない感覚で、

自分という存在が現実から浮いている感覚。

 

現実味がない。

現実味がないと、感情がない。

感情がないと、関係がない。

関係がないと、感情がない。

そんな循環の環にあって。

 

感情に溢れ、さらなる関係を求めていたとき。

関係に溢れ、さらなる感情を求めていたとき。

そんな循環の環にいたときは、

一体、僕はどうやって動いていたのかなぁと思う。

 

tsubasakato.hatenablog.com

 

見返してみれば、繋がりたいと思っていたけれど、

いまはそんな繋がりも面倒で、

楽しさも寂しさも、自分から持とうと思えなくて。

 

一時では求め、一時では遠ざける。

そんな矛盾が、ひたすらに嫌になる。

 

誰かと会えば、少しずつ変わるんだろうけれど、

一度そうなってしまったら、

誰かと会おうとも思えなくなってしまうんだなぁ。

 

そんな、どうしようもない日々。

 

 

 

 

 

ブログを書こうと思えたのは、また、憧れに出逢えたから。

こんな風に、また人と話したいなって。

 

矛盾と、葛藤と、すれ違いと、優しさと、傷つきと、勇気と。

そんな人と人の感情が描かれる物語が好きなのだけれど、

それは、「あぁ、やっぱりいいなぁ」って、

心から素直に思える出逢いがあるから。

 

 

有川浩さんの『レインツリーの国』

どうしようもなくなってる僕に、

少しだけ、どうにかしようって、思わせてくれる。

いまの僕に、灯りをくれる物語でした。

 

 

就職も決まって、社会人になる直前で、

もっと強くならなきゃと思っていて、

こんなことを書いていいのかなぁとも思うし、

少し前は、偉そうなことばかり書いてながら、

今度は、自分がうまくいかなくなっていて。

 

でも、いま、この自分が偽りのない自分で、

いまの世の中、「ちゃんとしなきゃ」ってことが多すぎて、

弱音なんて、簡単に言える世の中じゃなくて、

まあ、もちろん、責任を持って働いている身で、

簡単に弱音なんて言えるはずもないのだけれど、

でも、それが強すぎて、

一人ぼっちになっちゃう人もいるのかなぁって思うから、

いまの感情は、誰か、そんな人に届いてほしいな。

と、思って書き留めようかなって。

 

反省して、

今度は、落ち込みすぎてしまう前に、

どうにかできる自分でありたいなって思います。

 

さて、また、これから一歩一歩ずつ、

弱い自分に負けない自分に。

自分の選択に、自分の行動に、

責任を持てる、強い自分に。

 

つばさ