つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

「田んぼのような人工林」

「人工林は悪だ」という考えが、日本では強い気がする。

 

春には花粉を大量に撒き散らし、

大雨が降れば、土砂崩れや川の氾濫を引き起こす。

木の実を落とさないので、動物の住めない森となり、

棲家を追いやられたクマやイノシシが里山に出没する。

冬にもほとんど落葉しないので、海にミネラルや栄養を供給しない。 

日本のニュースでは、

こんなトピックで取り上げられるのではないかと思うし、

僕も、間違っているとは思わない。

花粉が多いのは、スギ、ヒノキが多いからだし、

土砂崩れの原因も、人工林だから、というのも一因だろう。

 

だけれど、あくまで「一因」であって、

「人工林は悪だ」という感覚は、一面的でしかないと思っている。

ここで挙げたすべての問題が、

「人工林だから」という原因で片付けられるものではない。

原因はもっとたくさんあって、複雑で、全体を把握するのは、難しい。

 

そのうちの一つは、「手入れの有無」。

一口に「人工林」と言っても、

適切に間伐された人工林と、50年間放置され続けた人工林は、

その様相が全く違う。

下草の有無、根の張り方、幹の太さ、樹冠のバランスによって、

暴風暴雨への強さ、弱さは全く異なる。

f:id:tsubasakato:20180822191234j:plain

f:id:tsubasakato:20180718184743j:plain

 

あるいは、「外部環境」。

花粉が多くなるのは、地球温暖化も一因だろう。

農村よりも、都市の方が花粉症の被害は大きいという。

それは、農村では土や水に花粉が吸収されていくが、

コンクリートで覆われた都市では、花粉はずっと舞い続けるからだ。

「手入れ」の話ともつながるが、

これだけ木が花粉を飛ばすのは、生命力が弱り、

子孫を残そうとしているからだ、というのも聞いたことがある。

f:id:tsubasakato:20180904195458j:plain

 

それから、「植生」。

そもそも、スギというのは、多量に水を吸収するため、

谷地が育つための適所だという。

考えてみれば、野菜にも、動物にもあるような、

生育に好ましい環境が、樹木それぞれにもあるはずなのだ。

それを、なまじ大きくなるからと、

適材適所を考えずに、雑木林を伐り拓き、

スギやヒノキを植えたのが、戦後の政策だった。

f:id:tsubasakato:20180904194905j:plain

山ひとつがすべて、スギだったり、ヒノキだったり。これは、大丈夫なのだろうか。

 

人工林も「人間の都合のために、特定の植物を育てる」ことが目的ならば、

畑で栽培する野菜と、何ら変わりはない。

それが、平地にあるか、山地にあるか、という違いだけだ。

単純にそう考えるならば、

「ひとつの山全体を、単一の畑にしていいのか」と聞かれれば、

そこに、疑問を持ってもいいのではないだろうか。

 

 

ここに挙げたのも、原因のひとつに過ぎない。

そもそも、相互に関係し合う自然の生態系の課題を考えるのだから、

その関係性を一つ一つ紐解いていくしかないのだ。

まだまだ、僕も知識不足が過ぎるので、少しずつ学んでいこう。

という、決意を新たにして。この記事は終えます笑。

 

 

ちなみに、その大概を「人工林」を対象に仕事する林業家としては、

「田んぼのような人工林」を模索していきたいなと。

人工物でありながら、タニシやヤゴやカエルや、

生き物の棲家になり、生態系のなかに溶け込んでいるもの。

畑も、自然栽培やパーマカルチャーが広がるなかで、

人工林も、新しいかたちがあるんじゃないかと、ひそかに思ってます。

それがどんな形かは、生涯模索していかなきゃなのかなと感じるところですが。

f:id:tsubasakato:20180904200807j:plain

人と共生する森を。

 

つばさ

林業には「ロマン」がある

 

林業は、サイクルが長い。

苗を植えてから、十分に木が育つまで、

少なくとも50年はかかる。

 

ましてや、

それまで何もしなくていいわけじゃない。

植林時、密に植えた小さな苗は、

10年ほど、下草刈りを春から夏にかけて繰り返し、

5年や10年ごとに、間伐(間引き)をする。

 

手入れを怠った林は、過密になりすぎた木々が、

お互いに光を奪い合い、空を枝葉で覆う。

それでも十分には成長できずに、

木の幹は細く、林の中は暗く、地面が剥き出しになる。

50年経っても、径は小さく、建築材にはならず、

チップやバイオマスに、その大半が使われる。

結果、価格は安い。

 

戦後、拡大造林(全国的にスギ・ヒノキの植林を促した政策)によって、

日本の山は、スギやヒノキの林が急増したが、それがいま、50年以上経つ。

しかし、先に言ったような手入れがされてこなかった林が、多く存在する。

f:id:tsubasakato:20180822191234j:plain

手入れの遅れたスギ林。奥は林内に光が入るが、手前は頭上が覆われてどんよりと暗い。

 

 

なぜ、こんなことが起こるかと言えば、やっぱりサイクルが長いから。

50年とは、僕がいま植えた木を、

僕の子どもが手入れをし、

僕の孫が伐採をする期間だ。

50年後は、僕は74歳。

まったくもって、想像がつかない。

5年先の自分すら、わからないのだから。

 

----------

つまり、林業は、決してひとりじゃ完結しない仕事だ。

この時代 ー林業家が減り、木材消費量が落ち、

手付かず林が増え、花粉が飛び交い、土砂崩れが頻発する。

山や木が、ますます人から離れていくこの時代に、

林業をすること。木と向き合うこと。

 

それは、それでも人の暮らしに、人間の生に、

木、植物、森、山が必要だと信じ、

また、その信念を、不確かな未来のなかでも、

きっと、受け継ぐ人間がいるはずだと、信じ抜くことだ。

 

 

漫画・ワンピースで、ルフィたちが空島へ向かうとき、

クリケットは、こう伝えた。

"黄金郷""空島"!!!

過去誰一人"無い"と証明できた奴ァいねェ!!!

バカげた理屈だと人は笑うだろうが結構じゃねェか!!

それでこそ!! "ロマン!!

f:id:tsubasakato:20180821230002j:plain

 

 100年後の、立派な木、綺麗な山、美しい森を夢見て、

今日もまた、一本の木と、向き合う。

だから、林業には、ロマンがある。

始めて数ヶ月だけれど、そう思っています。

 

もちろん、ロマンは、追い求め続けなきゃ、手に入らないだろうから。

自分の技術を高めること、美しい森を考えること、仲間を探すこと。

その努力を怠ってはいけないのだろうけれど。

「人事を尽くして、天命を待つ」

そんな言葉が似合いそうな。

 

これから、まだまだ、人事を尽くさねば。

明日もまた、精進。

 

つばさ

いま、この時代に、林業をするということ。

林業

それは、どんな仕事にもない特異な性質を持つ。

 

仕事のサイクルが、ものすごく長いことだ。

木は植えてから、50年で伐る時期を迎える。

それまで何をするかというと、

下草を刈ったり、枝打ちをしたり、間伐をする。

それを数十年経て、ようやく木の用途が増え、価値が上がる。

角材や、板材や、柱材などの建築材になるのだ。

 

サイクルが長いと言われる農業でさえ、

一年周期で回っていく。

ましてや、他の業種はもっと早く回っているのだろう。

それに比べ、林業は、50年周期。

あるいは、そこから100年生の森をつくろうと思えば、

周期はもっと伸びうる。

「自分の植えた木を、孫が伐る仕事」と先輩が言っていた。

とてつもない、と感じた。

 

サイクルが長いこと。

その一番の弊害は、経験の蓄積の遅さである。

ビジネス的に言えば、PDCAが遅い。

検証できる仮説は少なく、

仮説の正誤を検証できるのも、50年後だ。

現在、日本には50年を迎えたスギ・ヒノキ林が大量にある。

戦後、燃料や住宅のために取られた「拡大造林」政策で、

植林が日本全国で行われたからである。

 

f:id:tsubasakato:20180718182042p:plain

齢級は、木の年数の数え方。1齢級=1~5年生、2齢級=6~10年生...となる。データは平成24年度のもののため、現在50年生以上の人工林は、10齢級以上のものとおおよそ一致する。(出典:林野庁

 

しかし、そう考えると、

パソコンが生まれ、スマホが生まれ、AIが生まれつつあるこの期間に、

林業は、一周しかしていないことになる。

スギ・ヒノキの人工林を主とする「林業」も、一度目の試みなのだ。

いかに、林業のサイクルが遅いかがわかるだろう。

 

 

「自分の植えた木を、孫が伐る仕事」

そのことを、友だちに話したら、

「そんな先のこと想像しながら、仕事できない」と言われた。

確かに、あんまり実感が湧かないかもしれない。

あるいは、自分もそこまで先を考えているのかと聞かれれば、

まだまだ考えが及ばないことも多い気もする。

 

だけれども、

本当にそれでいいのだろうか。

本来は、政治だって、教育だって、科学技術だって、

数年先だけを見てちゃいけないはずだ。

どんな国を目指すのか。

どんな人を育てるのか。

その技術で、世に何をもたらすのか。

それを50年、100年先まで考えて初めて、それらは意味を成すのではないか。

いまの時代に、それを考えている人が、どれだけいるのだろうか。

長期的視点というものが、失われてきていると感じるのは、僕だけだろうか。

 

だからこそ、いま、林業だ、と僕は思う。

林業は、50年かかる。

そんなこと、時代遅れだと言うかもしれない。

50年先のリスクを取るなんて、バカだと思うかもしれない。

だがしかし、50年かからざるを得ない、林業という世界は、

目まぐるしく変化する現代のなかでも、

そのスピードに惑わされず、

未来のために、本当に大切なことを考え、

その遠い先を見据えながら、

いま、やるべきことを、地道に続けること。

それを、教えてくれるのではないだろうか。

 

f:id:tsubasakato:20180718184743j:plain

僕はいま、昔の人が植えた木で、生きている。

 

ある山を間伐し終わったとき、

「30年経てば、ここはいい山になるが!」と、先輩が言った。

「そうですね」と、僕は相槌を打ったが、

心から、実感した言葉では、まだなかったかもしれない。

その感覚を、もっと深く、もっと強く、持って生きたい。

 

林業家的視点を持った政治家が増えれば、

日本はもっと変わるんじゃないかと思いながら。

明日もまた、森を見据えながら、木と向き合います。

 

つばさ