つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

生きる「意味」とはなにか。「意味」の意味とはなにか。

とても心に残っている話があります。

一度しかお会いしたことないし、軽くお話を伺っただけ。

けれど、そのなかでお聞きした話は、なぜか僕の基盤をつくってる。

 

京都にある「サムライカフェ&バー 士心」のオーナー、浜村さんから伺った話。

それを僕なりの解釈を交えて、書きます。

(HP)士心 Samurai Cafe&Bar

 

 

「意味」の意味ってなんだろう?

 

みんなはよく、「生きる意味」を悩んでる。

じゃあ、「意味」の意味ってなんだろうか。

 

哲学的な問いで、聞かれたときは質問の意味がまったくわからなかった。

けれど、お話を伺っていて、

「意味」の意味とはつまり、なにがあると「意味」が生まれるのか。

なのかな、と僕は思った。

 

例えば、目の前にリンゴがあったとする。

これは、もし周りにまったくなにもなければ、リンゴになにか意味はあるか。

おそらく、何の意味も持たない。

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これが、

もし、リンゴと机があったら。「リンゴが机の上にある」という「意味」ができる。

もし、リンゴを床に落としたら。「床に落ちてリンゴが割れる」という「意味」ができる。

もし、リンゴを人が食べたら。「人がリンゴを食べる」という「意味」ができる。

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つまり、意味とは「関係性」であり、他の何かとの関係でしか「意味」は生まれない。

 

これを人に置き換えると、

人の生きる「意味」は、自分以外の誰か、あるいは何かとの関係のなかで生まれる。

言い換えると、人がなにかと関わりを持ったとき、意味が生まれる。ということだ。

 

「意味」のない人はいるのか。

そう考えると「生きる意味はない」というのは、本当か。

そんな人は絶対にいなくて、

生まれた瞬間、人は

「空気を吸い」「水を飲み」「他の命を食べる」。

「親」を持ち、「祖父母」を持ち、「先祖」を持つ。

 

外界と関わることもそう。

誰かと縁を結ぶのもそう。

 

それらすべては、自分以外との「関係づくり」であり、「意味」がある。

となると、「生きる意味はない」なんてことはない。

これまで自分が過去何十億年と築いてきた「意味」を整理すれば、

自分の立ち位置や役割がわかるはずなのかもしれない。

(口で言うのは簡単で、僕もまだ整理できているわけじゃないのだけど)

 

「生きる意味が見出せない」というのは、

「意味」がない状態じゃなくて、

「関係性」がまったく整理できていない状態なのかもしれない。

 

別の観点で言うと、

関係性が「意味」になるのならば、

まだ関係性を築けない「未来」には「意味」はなく、

「過去」と「現在」の関係性からしか、「意味」は見出せないのかもしれない。

未来の「やりたいこと」がない人たちは、

まだ関係性を持っていないものと、

新たに、自分の考えだけで関係を持とうとしているから、大変なのかもしれない。

「やりたいこと」がない人たちは、

それまで関係を持ってきた「過去」、そこから生み出された「現在」の自分。

それを見つめ直したら、報いるべき恩のようなものが見つかるのではないだろうか。

 

僕自身、この考えを心から理解できているわけじゃないと思う。

だけど、この話を聞いたとき、自分のなかに衝撃が走った。

なぜかは、深くわからない。

けれど、今もなお心に残っている話で、

なにか大事なことなのかなと感じる。

だから、自分が、誰と、何と、関係を持って生きるのか。

それを大切に、丁寧に、考えながら、生きていこう。

そう思うようになりました。


この言葉と、同じなのかな。僕のブログのテーマ。

だから、なにかを感じるのかもしれない。

 

「生きるっていうのはね」

「・・・」

「きっと誰かと心を通わせること。そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ」

引用元:住野よる著『君の膵臓を食べたい』(双葉文庫)p222-223

 

 

 

つばさ