つばさの軌跡

京大卒。新卒の2018年春、鳥取県智頭町に移住し、社員2名の林業会社に就職。林業家を志す。働くこと、食べること、寝ること、話すこと、住むこと...。自分の人生の時間を分けることなく、暮らしの所作、その一つ一つに丁寧に向き合って、精一杯生き抜くことが目標。

変革を起こす「越境者」であれ

10日間、京都で山籠りしていたので、

2週間も前になってしまったけれど。

 

地元・長野市の地域づくりのイベントに、

スピーカーとして話をさせてもらいました。

 

人前では緊張してどもってしまうので苦手で、

準備を先延ばしにしてしまうことが多いけれど、

今回は思うところがあり、何回も練習して臨みました。

林業の話以前の、僕の社会に対する問題意識だけを15分。

プレゼンはとりあえず合格点かなと。

 

嬉しかったのは。

一人の50代の男性が、

「今日は君とFさん(もう一人のスピーカー)と知り合えたのが私の財産」

と伝えてくださって、本当に光栄でした。

 

得意じゃないものを引き受け、

気合いを入れて取り組んだのは、

ひとつの使命感があります。

 

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越境者であり続けること

参加者は、40-50代の社会人の方が多かった印象。

一方、僕はまだなにも始めてないただの学生。

そんな状況で依頼を受けるのは躊躇われました。

こんな状況で、何か有意義なことが話せるのかと。

 

ただ、やはり、僕が山に入る意義はなんなのか、

なぜ林野庁じゃないのかを考えたときに、

それは分断を越えることだと思っている。

 

社会の変革は、越境者から始まる。

既存の社会に新しいものが生まれ、変化していく。

それは社会の内部から生まれることもあるが、

外部からの新参者が刺激となることが多い。

それは今までなかった価値観をもたらし、

既存の社会をまた別の社会とつなげる、あるいは新しい社会へと再構築する。

地方を変えるのは若者、よそ者、バカ者と言われる。

要するに「越境者」だ。

現状維持では、なにも変わらない。

 

京大卒の林野庁員はきっとたくさんいる。

その人たちが、現在の林業の一角を担ってきた。

けれど、いま日本の森林は多くの課題を抱えている。

いままでのやり方では変わらない。

(もちろん林野庁に進む人等を批判してるわけではありません)

 

僕は林業家としては、技術の面では劣るかもしれない。

160センチ、50キロのひ弱な体格では、最初はきっとついてくのに必死だろう。

それでも僕が現場に行く意味。

それは、新しい風を吹かせること。

新しい視点をもたらすこと。

そして、新しい人々の層に伝えること。

これしかない。

 

林業の現場では「京大卒」など意味を持たない。

むしろ、邪魔だ。煙たがられる。

林野庁に行って、林業を変えてくれ」と言われたことは一回ではない。

だから自分でもあまり言いたくない。

 

だけど、使えるものは使ってやる。

「京大卒・林業家」がより多くの人のきっかけになるのなら。

 

いま、人が生活の中で「木」を意識することはない。

無くても生きていけるように錯覚している。

林業家も山から離れることは少ない。

この分断を、越えること。

2つの世界をつなげること。

その橋に、自分がなること。

それが僕が山に入る社会的意義だ。

 

越境者であり続けること。

世界を伝え続けること。

これを一つの使命としていきたい。

 

 

というわけで講演の機会は願ってもない場で、

もちろん、これからは山仕事が優先だし、

まだ未熟者だけれど、呼んでくださるものにはできる限り受けたいと思います。

まず、地元で話せて嬉しかった...。 

 

つばさ

青森県六ヶ所村へ

青森県六ヶ所村へ行ってきました。

普通の人はどれぐらい知っているんだろう。

僕は恥ずかしながら、東北へ来るまで

六ヶ所村に何があるのか詳しく答えられませんでした。

今回行ったのも、車で1時間ぐらいぐるぐる回っただけ。

前後に時間がなくて、そうなってしまったのだけれど、

そうでもして自分の目で見てみたくなった。

だからほんの表面しか今回は書けないけれど、

「なんにも知らない」という人は、読んでみてもらえると嬉しいです。

 

 

六ヶ所村には、原発の再処理工場がある。

六ヶ所村には、高レベル核廃棄物の貯蔵施設がある。

六ヶ所村には、石油備蓄基地がある。

六ヶ所村には、メガソーラー発電所がある。

六ヶ所村には、風車が至る所に建っている。

 

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展望台から見た風車。どこを見ても目に入るぐらいたくさん。

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近くで見ると圧巻。

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中央の緑色の建物が石油備蓄基地

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鉄塔と電線が空に架かる。

 

 

異様ではあった。

道中は、松林のなかだった。

そのまま行けば本州最北端、下北半島へと続く。

その途に、人口一万人のその村はあった。

視界が開けると鉄塔と風車が立ち並び、

平地にはソーラーパネルが敷き詰められ、

工業施設と隣接する団地住宅が軒を連ねていた。

 

だからどうした。は、僕はまだわからない。

国が押し付けているようであり、実際激しい反対運動もあったという。

一方で、村民の一人当たり所得は1,300万を超えるという。

これらの施設がないと村は行き詰まると言う村民もいる。

外見だけでは、一方的な解釈になってしまう。

 

 

ただ一つ事実は、いま僕らはこの光景がないと生きていけないということだ。

街中で生活し、便利なモノを買い、多くのエネルギーに支えられている。

それが、六ヶ所村に集積されている。

そのことは知っておいて、できれば行って見て感じておいた上で、

生活するのは大事なんじゃないかなぁと。

そう思って、僕は足を伸ばして行ってみました。

 

六ヶ所村の施設】

www.rokkasho.jp

 

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チッソとは何なんだ、私が闘っている相手は何なんだということがわからなくなって、狂って狂って考えていった先に気付いたのが、巨大な「システム社会」でした。私がいっている「システム社会」というのは、法律であり制度でもありますけれども、それ以上に、時代の価値観が構造的に組み込まれている、そういう世の中です。」

緒方正人(2001)『チッソは私であった』(葦書房)p.48

 

「いわばチッソのような化学工場で作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけです。...私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱して行くのかということが、大きな問いとしてあるように思います。」

緒方正人(2001)『チッソは私であった』(葦書房)p.49

 

10年以上続けた水俣病闘争から退いた漁師・緒方正人さんはこう語る。

 

チッソも、原発も、本質的には変わらない。

私たちは「原発的な社会」の中に生き、期をせずにその社会を支えているのだ。

六ケ所村は、私たちの価値観の具体的な表出の一つだ。

 

責任者を探し続けても、そこにいるのは私たちだ。

一人の責任者のいない時代に、革命は起きない。

首相を変えたとしても、また別の誰かが出てくるだけだろう。

その意味で変革は、自身を変えることからしか始まらないのかもしれない。

 


核サイクル "原子力が支える村"...六ヶ所村の真実

 

つばさ

どうすれば「持続可能」になるか。

前回に続き、僕のいま考えること第2弾。卒業論文から引っ張ってきました。

前回の記事は以下をご覧ください。

tsubasakato.hatenablog.com

 

○二つの世界に生きる

それから世の中には二つの世界があることに気付いた。

一つはモノとお金がぐるぐる回る、人間がつくった世界。

もう一つは人間とは関係のないところで、

空気や水や土や命がぐるぐる回る自然の世界。

そして自分は今まで片方の世界でしか生きていなかったのだと感じた。

学業に励み、「いい」大学へ進学し、どこかの企業へ就職しようとしていた。

もちろんそれが悪いわけでは決してない。

というより良いとか悪いとかいう話ではない。

そっちの世界もあるけれど、もう一つの世界もあるということに気付いたのだ。

そして魅了されてしまった。

海のことを語る漁師が、土のことを語る農家が、

何より「生きる」ことと向き合っているように感じて、

どうしようもなく格好よかった。

 

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なぜ今、こんなにも「持続可能性」が叫ばれているのだろうか。

答えは一つ。

今までが持続可能ではなかったからだ。

日本は高度経済成長を経て、社会はますます豊かになった。

しかし本当に豊かになったのだろうか。

車が増えた分、空気は汚染された。

農薬を使った分、虫たちはいなくなった。

トウモロコシが安くなった分、地下水が枯渇している。

鶏肉が安くなった分、数え切れないほどの鶏がケージの中で一生を終えている。

これらのコストを誰かが払っているだろうか。

払っていないとすれば、私たちがいままさに享受する「豊かさ」は、

何かの犠牲の上に成り立っているのではないだろうか。

手に入れたと思っているものは、実はどこかから奪っているのではないだろうか。

そしていま「持続可能性」が叫ばれるのは、

奪われた者たちによる反撃なのではないか。

そんな風に思うのだ。

 

○持続可能性の鍵は「分解」にある

私たちは大量生産・大量消費をしてきた。

しかしそれだけでは語弊がある。

大量消費をすると同時に大量廃棄しているはずだ。

消費という言葉は誤解を招く。

人が消費してもモノは消えない。

モノを消費しても最終的にはゴミになり、食べ物を消費しても排泄物は出てくる。

これこそが持続可能でない原因にあると私は考える。

現代は大量生産・大量消費・大量廃棄社会なのだ。

 

【経済活動】

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ではどうすれば持続可能な社会が実現するのか。

それはもう一つの世界、自然の世界を見ればわかる。

自然の世界はどう循環しているか。

例えば窒素(植物を育てる栄養素)を見てみよう。

植物は根から窒素分を吸収し生長する。

その草や実などを人間や他の動物が食べて消化する。

消化して出た排泄物、あるいは動物の死骸は土中の微生物によって分解される。

分解され土になると再び植物が吸収する。

このような輪で回っているのだ。

 

【自然】

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では今の仕組みに足りないものは何か。

それは分解過程である。

ゴミは焼却し埋め立てられ、排泄物は消毒されて川へと流れ、遺体も火葬だ

土に還す仕組みにはなっていないのだ。

このようにゴミや他の形で外に出たものを、

再生産のための処理をする分解の機能が抜け落ちているのである。

この仕組みではいずれ資源は枯渇し、生産ができなくなるのは当然のことである。

人間のつくった世界の持続可能性を考えるならば、

「分解」の機能を見直さなければならない。

 

トイレから考えると、世界が見える。

ゴミ箱を変えれば、世界が変わる。

そんな風にいうことはできないだろうか。

 

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ゴミ箱を覗けば、世界が見える...? 

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原発も「分解」から見れば、かつてないゴミを出してしまう。安全性の問題だけじゃなく。

 

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誤解されないように言うと、

いままでの発展や進歩を全否定しているわけではないこと。

否定は正義の押し付け合いになりかねないし、

誰かの考えるタネになればいいなぁとか、感じたこと共有したいなぁと

思って書いています。

 

つばさ